まるせいのいわれ

なぜ”まるせい”と呼ばれるのですか?

"まるせい"の名のいわれは、明治41年に遡ります。
明治41年6月に当金庫の前身である 焼津生産組合が設立されました。
"まるせい"の屋号はそこからきているのです。

生産組合はなんの為に作られたのですか?

生産組合は漁法の革命に大きな役割を果たしました。
当時の焼津の漁労者は、手漕ぎの船( 八丁櫓 )で伊豆七島の方までかつお漁に行っていましたが、手漕ぎの船では漁場や漁獲量に限度があるため、安全度も高い石油発動機船が欲しかったのです。
時の政府も日露戦争後の不況対策として、漁業の刷新振興を国策の一つとしました。
この一環として、静岡県も指導船“富士丸”を作り指導と研究に当たるという、焼津漁業界には画期的革命の契機が訪れたのです。
なんといっても富士丸は日本で初めての発動機船だったのですから。

組合はその発動機船の建造に?

そうなんです。
焼津生産組合は、15トン級4隻と30トン級2隻の石油発動機船を設備し、これを組合員に賃貸する事業を始めたのです。
もちろん、当時の発動機は完全とはいえず、機関士も初めての経験で安定した経営を行うまでには大変な困難があったと聞いております。しかし、このことが現在の焼津を築く礎となったのです。

組合のその後は?

その後は次のように何度か組織変更がありました。

大正11年
(有)焼津信用販売利用組合
昭和8年4月
保証責任焼津信用販売購買利用組合
昭和18年8月
焼津信用組合 (産業組合法による)
昭和25年8月
焼津信用組合 (中小企業等共同組合法による)
昭和26年10月
焼津信用金庫 (信用金庫法による)

この間にはいろいろなことがあったのでしょうね?

この間第一次世界大戦の不況に加え、大正12年に関東大震災が起こり、昭和2年の春には金融恐慌が発生しました。
更に昭和4年(1929年)には、アメリカに端を発する世界大恐慌が起こるなど日本経済は地方にもその不況の波を広げ、昭和7年3月には焼津市においても、明治銀行焼津支店他2ヶ所の金融機関が突如預金の支払い を停止するなど、当地にも金融恐慌が押し寄せました。
当組合信用部も貯金の流出がありましたが、幸い産業組合中央金庫等の応援と多数組合員の自覚のおかげで、この苦境を脱することができました。
昭和25年には焼津信用組合と改称し、大蔵省の管轄下に入りました。
そして翌年の昭和26年には現在の焼津信用金庫となったのです。

地域の金融センターに

このように、地域の一産業組合の信用部門として生まれ、地域の皆さまのご支援とそれに応える私たちの諸先輩方の努力とが相まって、次第に信頼と共鳴の輪が広がり、現在のにまで成長させていただきました。
これからもこの原点を忘れずに、地域の金融センターなることこその使命であると固く信じて業務に励んでまいります。

でんさいネット

インターネットローン申込み

▲このページのトップへ