小泉八雲と焼津

小泉八雲が初めて焼津を訪れたのは、1897年(明治30年)8月4日のことでした。以来、6夏を焼津に遊んだ八雲。
八雲は、いつ、どこで生まれ、どんな縁で日本に来たのか。 八雲は、なぜ焼津を愛したのか。
偉大なる人 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の焼津での出来事を中心に、八雲の一生を紹介します。

八雲年譜

1850年
6月27日 ギリシャのレフカス島に生まれる
1868年
明治維新
1869年
20歳で渡米、5年の貧乏生活の中にも勉強を続ける
1874年
新聞記者になる
1890年4月
(明治23年)
通信員として挿し絵画家とニューヨークを出発、横浜港着挿し絵画家より報酬が悪いことを知り、通信員をやめる
1890年8月
知り合いの斡旋で松江中学の英語教師となる (40歳)
1891年2月
小泉セツ(23歳)と結婚、日本研究に没頭
1891年11月
松江を離れ、熊本第五高等学校に転任
1894年7月
神戸クロニクル社に入社し、神戸に移る 『知られぬ日本の面影』出版
1895年
帰化し夫人の姓をとり小泉とし、出雲にちなんで八雲と名乗る 『東の国より』出版
1896年8月
東京帝大(東大)文学部講師として赴任、市ヶ谷に住む 『心』出版
1897年
(明治30年)
夏、初めて焼津に来る 富士登山
 
1899年
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『霊の日本』出版
1900年
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『影』出版
1901年
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『日本雑事』出版
1902年
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『日本御伽噺』『骨董』出版
1903年
帝大講師を退く 来焼中止(心臓病にて水泳はドクターストップ)
1904年4月
早稲田大学文学部に出講 家族とともに焼津に遊ぶ
1904年
9月26日 狭心症のため逝去 享年54歳

八雲の一生

焼津の海

小泉八雲とその家族が焼津を最初に訪れたのは、東京大学講師となった翌年、明治30年(1897年)8月4日でした。

八雲は海が好きで水泳が得意でしたから、夏休みを海で過ごそうと、以前松江中学の教諭でその頃浜松中学の教諭であった田村豊久さんにさそわれて、 舞坂を訪れたものの海が遠浅で気に入らず、どこかよい海岸をさがそうと焼津に降りたところ、深くて荒い焼津の浜が気に入ったのです。

最初は新屋の浜の“秋月”という料亭に宿泊しましたが、いざこざがあって秋月を飛び出し、一行は紹介された海岸通りの魚商人・山口乙吉さんの家の2階を借りることになりました。

山口乙吉との出会い

以後、小泉八雲が夏休みになるのを待ちかねてこの町を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、焼津気質を象徴するような山口乙吉という人を得たこと、そして焼津の人々を好きになったこと、などがその主な理由だったのでしょう。

実際、明治31年以後32年、33年、34年、35年、37年とほぼ毎年の夏1か月前後を焼津に滞在しました。

八雲は普段寸暇をおしんで机に向かっていましたが、焼津では長男の一雄さんに勉強を教えるほかは、ほとんど水泳や散歩などのんびりと暮らし、休養しました。八雲は乙吉さんのことを“神様のような人”と称し、“乙吉さーま”と呼びました。乙吉さんをはじめ焼津の人々は八雲を“先生さま”と呼び、尊敬の念をもって迎えました。そこに暖かな交流が生まれ、八雲は本当にくつろいだ気分で夏休みを過ごすことができたのです。

八雲が焼津を訪れた最後の年、明治37年には帰京する際、乙吉さんに、「焼津へ別荘を建てたいから焼津ホテルの近くへ敷地を求めてほしい」と依頼したというとこですが、それから約1か月後、彼は帰らぬ人となってしまいました。

今も焼津に生きる八雲

乙吉の家は海岸からすぐ近くにあり、傍らの小路に入って海に向かうと防波堤に当たり、その傍らには浪切り地蔵がまつられています。今も八雲地蔵と呼ばれるこのお地蔵さんの縁日、7月24日には近くの人々が集まって唱える念仏が海に響きます。

焼津の人たちは八雲をいつまでもなつかしみ、大正末期には町役場前に“小泉八雲先生諷詠の地”と刻んだ記念碑を建て、昭和に入ると有志による八雲会が生まれました。第2次大戦後八雲顕彰会が新発足し、昭和25年8月には生誕百年祭を盛大に催しました。遺品や図書を集めた小泉八雲文庫は、このとき設けられたものです。“....八雲恋しや 夏祭り”という八雲小唄などもこのとき創られました。現在の小泉八雲顕彰会は昭和41年に再発足したもので、八雲と焼津について研究を行なうとともに、先輩たちから学んだ事柄を次の世代へ伝えていくことに努めていきます。

焼津市では昭和60年に文化センターを建設し、これに併設した歴史民俗資料館に小泉八雲コーナーを設けましたが、更に八雲の来焼100年に因み記念館を建設しようという声があがり、平成4年4月、焼津市に八雲記念館建設基金条例が制定され、現在基金の募集が進められています。

なお、焼津にちなんだ八雲の作品には、「焼津にて」「海のほとり」「漂流」「乙吉のだるま」など珠玉の短編があります。また、焼津に遊んだ思い出を、長男の一雄さんが、「父、八雲を憶う」の中で驚くほどくわしく記しています。これらの小泉八雲に関する書籍が焼津市立図書館にたくさん揃えてありますので、ご一読下さい。

最初は新屋の浜の“秋月”という料亭に宿泊しましたが、いざこざがあって秋月を飛び出し、一行は紹介された海岸通りの魚商人・山口乙吉さんの家の2階を借りることになりました。

ハ-ンの生い立ち

小泉八雲、即ちラフカディオ・ハ-ン(ヘルンとも言う)は、1850年(嘉永3年)6月27日、ギリシャのレフカス島(ギリシャ本土に接して西側のイオニア海に浮かぶ美しい小島)で生まれました。父はアイルランド人でイギリス軍の軍医、母はギリシャ人でした。

ハーンが2歳の年に父が転任となったため、彼は母と父の実家アイルランドのダブリンへ移ります。しかし、いろいろなことがあって、ハーンが6歳のとき母は離婚され、生まれ故郷へ帰ります。以後再び会うことのなかった母を、ハーンは生涯慕い続けるのです。

母と別れたハーンは、資産家で子どものなかった大叔母(父の母方の叔母)に引きとられますが、13歳で入学したイギリスの学校で、遊戯中に友達の持つ縄が当たって左目を失います。彼は幼い頃から強い近眼で、その上一方の眼をなくし、以後ずっと目に苦しむことになります。

青年時代

ハーンが16歳のころ、大叔母が破産します。その後彼は、フランスの学校に入りますが、彼の考えに合わないことからまもなく退学、そして19歳の年、1869年ハーンは新天地を求めてアメリカへ渡り、ワシントンから西へ650キロほどにある町、シンシナティに落ちつきます。そこでは、始め食事も満足にできないほど貧乏な生活に苦しみながらも、図書館へ通って勉学に励む時間を持つことができました。やがてその町で発行される新聞の記者となり、彼の文才は広く認められるよう になります。そしてこの頃から、東洋について興味を持ちはじめます。

しかし彼はそこに安住せず、1877年ずっと南、ミシシッピ川がメキシコ湾に注ぐ河口近くの大都市ニューオリンズに移り、小さな新聞社に勤め、更に南部の大新聞社「タイムス・デモクラット」の文学部長となります。経済的にも時間的にも若干の余裕ができた彼は自らの著述や外国文学の翻訳も盛んに行いました。またその記事を通して、彼は南部の最も優れた新聞記者の一人に挙げられるほどとなります。

日本の“心”に触れる

ニューオリンズでは、1884年にこの町の百年祭記念博覧会が開かれ、日本からも美術工芸品が出品されました。ハーンは毎日のように会場を訪れ、片方の近眼の目をこすりつけるようにして日本の出品物を眺 め、”西欧芸術にはないすばらしい優雅さがある”と感動していたということです。その会場では、日本の文部省から派遣されていた服部一三という役人とも知り合いました。

美術工芸品を通して日本“心”に直接触れたことが、ハーンと日本を結ぶ上で大きな意味を持ったのでしょうが、彼が来日するまでにはまだ時間がかかります。ニューオリンズで10年過ごしたハーンは、1887年ニューヨークの書店「ハーパー社」と、西インド諸島の印象記を書く契約を結んで、南米の北岸に近い小島、フランス領マルティニック島へ渡り、その地で仕事のほか著作に励みます。

憧れの国“日本”に

南の島で2年間を過ごしたハーンはニューヨークに帰り、ハーパー社及びカナダ太平洋鉄道汽船会社と日本に関する記事を送る契約を結び、1890年(明治23年)3月55日ニューヨークを出発、バンクーバーから汽船に乗り4月4日横浜に着きました。この未知の国に彼は大変な興味を持ちますが、ハーパー社との契約条件が悪く、さらに同行した画家よりも 条件が劣っていたことを憤慨して、特派員の契約を破棄してしまいます。

それはハーンが職を失うことを意味しましたが、横浜滞在の当時米国海軍の軍人マクドナルド氏や、ニューオリンズで知りあい当時文部省の要職にあった服部一三氏らの世話で出雲の国島根県松江中学校の英語教師となることが決まりました。ハーンは既に英訳の「古事記」などを読んでいたので、神々の国出雲へ行くことを非常に喜んだのです。

松江に住む

松江へ着いたのはその年8月の終わりで、9月早々から松江中学へ登校します。月給は百円で、校長の給料の2倍余でした。明治政府は欧米 人教師を高給で招いていたので、松江中学にもそうした教師が来ていましたが、それら教師が西欧文明を自慢し、日本を未開の国とさげすむ気風があったのに対し、ハーンは西欧の物質文明を嫌い、この国のつつしみ深い固有の文化を愛し、自ら日本の生活様式を求めたので、たちまち松江の人々から敬愛されました。

その頃の「松江日報」は、「……かくの如き良教員を得たるは我が中学校の最大幸福たるものなれば予輩(我々)は県下の為め世人の厚く同氏を待(待遇)せんことを希望せんと欲する(望む)ものなり」と記しています。

熊本に移る

ハーンは古き伝統と文化を守っている落ち着いた城下町松江がこの上なく気に入り、ここで元士族の娘・小泉セツさんと結婚したこともあって、一時は松江に永住したいとさえ考えます。しかし彼は体質的に寒さをきらい、山陰の冬の厳しさから逃れるため翌明治24年11月、松江を去って熊本の第五高等学校教師となりました。熊本へ来て1年後、初めての子、一雄さんが生まれます。彼は大いに感動し、改めて国籍の問題を考えはじめたようです。

しかし熊本は松江に比べ気性が荒く、学校での授業時間が多くて著述 の時間が乏しいことなどからあまり気に入らず、3年の契約期間が終わると、神戸の英字新聞クロニクス社の論説記者となります。神戸には、1894年11月(明治27年)から96年8月まで住みますが、この間96年1月、45歳のとき日本へ帰化して、小泉八雲となります。

小泉は夫人の姓、八雲は出雲の”八雲立つ……”の歌に因んだものでした。

東大の講師に

帰化と前後して、東京大学から文学部の英文科講師となってほしいとの要請を受けます。八雲は、よい校長の下で気楽な学校なら百円の月給でもよいが、週27時間も授業を持たされ、かつ不作法な熊本のような所なら1週千円でも行かない、と仲介者に伝えます。しかし、当時の学長の外山正一博士は礼をつくして彼を迎えたのでこれを受け入れ、8月上京します。週12時間の授業という事で月給400円(後に450円)でした。

八雲の授業は大変に熱心で、彼の豊かな知識に裏付けられた奥深いものでしたが、外山総長が去った後、徐々に大学の考え方も変わり、誤解も生じて1903年(明治36年)3月で東京大学講師を辞めることになります。

そしてその翌1904年4月、早稲田大学へ招かれて講師となります。週4時間の授業で年2千円ということでした。八雲は学校での授業時間にこだわっていますが、それは著述にあてる時間を大切にしたからで、面倒な交際や来客などは極力さけて書斎にこもりました。

八雲はこの学校が気に入りますが、その年9月26日、狭心症のため死去します。54歳でした。

でんさいネット

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