小川国夫の文学世界

昼行灯ノート(小川国夫 エッセイ)

於阿吾さま

松平周防守の娘が井伊直政のところへ輿入れした時に、於阿吾(おあご)は腰元としてついて行きました。遠州浜松から上州箕輪へ行ったのです。ところが数年ののち於阿吾は直政の子をみごもってしまうのです。井伊家はどのように揉めたのか、ともかく彼女は身を引いて、駿河の益津郡にある実家へもどります。印具(いんぐ)家というのですが、ひょっとすると彼女の実の生家ではなかったのかもしれません。

 なぜなら、この家は身重の彼女をはねつけ、近所の別の実家へあずけてしまうからです。そこで彼女は男の子を産みました。母親は農家の手伝いなどして身をたて、息子はともかく育ちました。そして十二歳になった時、思いがけず井伊家の迎えが当主の刀をたずさえてあらわれ、箕輪のお城へ引きとって行くのです。この少年が井伊直孝です。

井伊直孝とはだれか……。のちに大阪冬、夏の陣に大功をたてて彦根三十万石を領し、秀忠、家光、家綱三代に仕え、三十四年間幕政の第一人者であり続けました。徳川封建制の基礎を置いた人物のですし、その上、数奇なさだめを素地とした人生観は<遺訓>となって残り、井伊家の精神的支柱となりました。

彼を井伊家のあとつぎに定めたのは家康です。この家には正室の産んだ長男もあったのですが、まげて病弱との理由をつけて、排除しました。そこで私は、家康と直孝の関係をあれこれ推測しているのです。

彼は家康に似ていたそうです。容貌まではどうか、やることなすこと家康にそっくりだったといいます。しかも家康は、直孝の誕生、成長と重なる期間に、その周辺によく姿をあらわしました。今も鳩射川とか仮宿という地名がその一帯に点在するのは大御所の狩の足跡です。 以上のような次第で、私の家のまわりにも家康の策謀が感じられます。そして私は、その臭いをかすかにかぎながら、かなり濃い緑の中を毎日散歩しています。幸いに激しい都市化をまぬがれ、平凡とはいえ、植物も山も川も池も、雨の日にはハッとするほど美しく映えることもあります。

ところで、私の真の関心は家康や直孝よりも、その母親於阿吾のほうに傾きがちなのです。地元の女というので、ひいきしているのかもしれません。にもかかわらず、彼女はどこを探しても、ろくに存在していないのです。武士たちについては、あれほど書いてあって、多くは《藩翰譜》のようにきれいごとを並べているのに、女は棄ておかれているのです。仕方なく想像をまじえて考えれば、彼女は貧しい生涯を送ったかのようです。ついには彦根に招かれたのか、農家の下働きをしてあまり長くない命を終えたのか、あるいは、その間に、近くの東海道岡部宿の女郎屋にいたか、などなどです。

岡部ご女郎花ならよかろ
折って一枝国みやげ

などという歌も唱われたとのこと。まさか彼女の耳には入らなかったと思いますが……。
 散歩コースに周囲千五百メートルほどの池があり、この季節には分厚い葦がもまれたり、そよいだりしています。しかもその近くに喫茶店〈葦〉があって、以上のような土地の歴史についても談論する相手がたむろすることが多いのです。サラリーマン、店主、年金生活者、やり合うのは男ばかりです。私はこの話の火つけ役でした。特に熱心な探求者はマスターの中川正久さんで、いつも数冊のノートを、コーヒーカップの棚の片隅に置いていますし、次第にそのカサが増しつつあります。いつの日かくわしい直孝像、於阿吾像が上梓されるでしょう。

ひとり行く女

戦後の東京で学生だったころ、山本晴山という人とつき合っていました。いわゆる腕と度胸で生きてきた人で大森駅近辺の焼跡では--防空壕やバラックに住んでいた人々の間では顔役でしたが、メチルアルコールを飲んだために無念にもほとんど失明してしまい、職につくこともできなくなったのです。ずっこけ学生と私と意気投合し、会うたびに頬笑んでくれたのが忘れられません。私も彼のためを思い、あちこち当たってみて、中野に盲人の職業訓練所があるときいて、入ってみないかと勧めました。

彼に同行してそこへ行きました。決して明るい場所とはいえませんでした。冬の夕方でしたが、戸外の寒さも闇の室内に入りこんで、体に沁みてきてしまうのです。そして、そんな待合所にいた七、八人の中には、負傷兵、爆撃の被災者も含まれていて、ぼそぼそと身の上話などしていました。

そこへ一人のドイツ人女性が入ってきたのです。ズボンをはいて、当時ずだ袋とよばれていた雑嚢をたすきにかけて、速足で入りこんできて、アクセントの強い日本語で話したのです。演説口調でした。自分の言うことが解ってほしいという気持ちがあふれていました。・・・・・・日本人はお国のためにとってもよく働きました。哲学を持っていました。こんなに立派な国民は滅多にありません。どうか悲しまないでください。どうか、どうかもっと威張ってください。

こんな調子でした。彼女はわが友山本晴山のかたわらへ来て、あなたの眼も戦争でいたんだのですか、と聞きましたから、彼は苦笑するのみでした。

やがて十八年を経て、彼女とよく似た女性が静岡県藤枝の私の家へ来たことがありました。私の幼友達だった特功隊員鈴木圓一郎さんのことを聞きに来たのです。彼女も雑嚢をたすきにかけ、ズボンと運動靴のいでたちでした。

ただし日本人です。彼女はこのような旅姿で、戦死した特攻隊員のゆかりをたずねながら、全国をめぐり歩いているとのこと、彼女もまた同じ戦死者の母とのことでした。

私は圓一郎さんについて、乞われるままに、くわしく話し、同じ町に住んでいる彼の母堂を紹介しました。そちらではもっと話しこんだことでしょう。

なぜこのような女性の来訪をうけたかというと、その数日前のある新聞に、私が圓一郎さんの思い出を書いたからです。絵を描くこととチャンバラ映画が好きな、喧嘩が嫌いなスポーツ少年で、彼のころにはまだむつかしかった海軍兵学校に合格して、まわりを驚かせたことなどを・・・・・・。

同じようないでたちで、同じく六十歳ほどの年輩の女性に、もう一人出会ったことがあります。南フランスのオランジュにある、音に聞こえた古代円形劇場に、その人はひとりでいました。オーストリアとかドイツ、スペインとかフランスを巡り歩いているとのことでした。健脚の人であることは、彼女にも見てとれました。時にヨーロッパで見かけることがある、ややビラビラを身にまとっていたり、やや興奮しすぎていたりする日本人女性の気配など少しもなく、ひっそりと好きな場所を歩いている人と見えました。札幌の薄田さんといったと記憶しています。俳句が趣味だと言い、たしか、<天に風蜥蜴とわれは石に居て>と詠んだのです。

遺跡が好きだともいっていました。自分もそうだ、と私はいい、人工物はいつしか自然に帰ります、土や木の建築は土に、石のそれはただの石に帰ります、それらよりもはるかに短い命が、それらのゆるやかな帰還に立ち合っているのが今です、と感想をいいますと、彼女は一応なるほどといった顔をして、この当たり前な言い分にうなずいてくれました。

散歩とは何か

生家に住んでいて、しかも(ほとんど)生まれた場所で原稿を書き続けているのが、私の妙なめぐり合わせです。そして歩いて四、五分のところにある母校藤枝東高等学校では、二十年も前から、三年に一度講演するしきたりになっています。過日も演壇にあがりましたが、私の話がおもしろくないことをいち早く見抜いたのでしょう、生徒たちがざわめいていました。すると一人の先生が彼らのなかに割ってはいり、静かにしろ、小川さんがお元気なうちに話をうかがっておけ、とたしなめるのが耳に入りました。

この一言を遺憾に思いすぎたのか、私はやがて次のように口走ってしまいました。

本校の近くにはかなり眺めのいい蓮華寺池もあり、ざっと回っても千五百メートルですから、適当な散歩コースなのですが、どういうわけか、私の足はあっちへ向わなくなりました。長年かかって定着した私の道筋は、本校のまわりを、大体生け垣に沿って一周しているのです。なぜそうなったか、特に理由はありません。

ここまでは良かったのですが、いわずもがなのことをつけ加えてしまったのです。曰く。別に本校を愛しているわけでもありませんが。

いや、考えてみると、やはり好きなんですね、母校ですから、とでもさらにつけ加えておけばよかったのです。生徒たちは気にすることもなく忘れてしまったでしょうが、私は今も気にしています。今さら出向いて、実はこの学校を愛しているんです、と訂正したりすれば、変な親爺、と思われるでしょうし・・・・・・。

それはなぜ、私がほとんど無意識にこのコースに惹かれたのか。説明しようとするとややこしいのです。グランドでサッカーや野球を練習している生徒とか、ひっそり弓を引いたり、プールでにぎやかな声をたてている生徒も好ましいものです。それに道沿いの草木にも馴れ親しみました。たとえば、晩夏ならば、彼岸花の小さな群がすくっと立っていて、じりじりと燃えている感じとか、晩秋から冬にかけては、光のおおような反映体としての薄の穂が、特に夕方には豪奢なおもむきすら見せるのとか、さらに、月、星、雨など、それぞれに趣があるのです。しかしこう書いても、コースの佳さを表現したことにはなりません。どこの曲りかどのくちなしや菊の匂い、水の匂い、枯葉の匂い、竹藪の葉ずれの音とか、勿論人家の灯とか車のライトとかも介在します。これらが一つながりのものとしてあるのが、私の散歩コースなのです。世にまれなものなどありません。平凡な味のスープが体質にフィットしてしまったのと同じです。

こう書いてきますと、眼が外にばかり向いているような印象になってしまうかもしれませんが、しかし、そんなことはありません。むしら反対で、気持は内にこもりがちなのです。やはり、最近読んだ本の内容に思いふけったり、原稿をどう書き進めたらいいだろうかと、とつおいつ考えながら歩いている時間が大部分なのです。そんな折、あなたはいいな、散歩していれば商売になるんだから、と声をかけてきたある銀行の幹部があったけれど、考えてみれば、たしかにそういうことなのです。

このように長年散歩に散歩を重ねた末、最近あこがれている理想の境地は、歩きながらすべてを忘れることです。眼前を流れるものを見ないわけにはいかないにしても、その意味は消え去り、いわば、いつでもない時間に入り、どこでもない場所を行く、そして、だれでもない自分になってしまう・・・・・・そんな散歩はないものでしょうか。

プロヴァンスと青春

最近南仏プロヴァンスで起きた二つの出来事に、ショックを受けました。
 一つは、トゥーロンの近くの小さな村で、十六歳の少年が十一人の村人を殺した事件です。先ず両親と弟をハンマーとバットで滅多打ちにして死なせ、翌日、家から出て、八人の村人をライフル銃で殺したあげく、自分の頭を射ち抜いてしまったというのです。

母親の連れ子だったそうですが、黙り勝ちというのみで、異常な気配はなかったそうです。高校の友達と一緒に映っている写真を見ても、この子が、まさか、といった感じです。その秘密を、みずから命を絶ったことによってかなたへ持ち去ってしまった、とフランスのニュースのキャスターは、とりあえず結んでいました。テレビでは犯行の現場である<役場への道>が移動撮影されていましたし、やがて、村の教会で行われた合同葬も映し出されました。

見ていると、かつてその近辺を(正確にこの村ではありませんが)放浪した時間がよみがえってきて、一きわ身につまされました。今も、少年の秘密や村人の悲嘆が気にかかっています。

もう一つは、サント・ヴィクトワール山のふもとで、丸尾かおりさんという二十四歳の女性が死体で発見された事件です。顔面を石のようなもので殴られていたとのことです。ひとり旅だったといいますが、それにもなにか事情があってのことか、などと考えてみても私に解ることではありません。

ただ彼女と共鳴するものが、私の胸にあるように思えてならないのです。それも一杯あるような気がするのです。なぜなら、二十代だった私もまた、この地をひとりで旅していたことがあるからです。そして、サント・ヴィクトワール山のふもとにしばらく滞在し、風景の中にポール・セザンヌを感じていたものです。同じ地点を三回おとずれました。そして今度の不幸の現場をテレビで見て、青春の旅の泊地に再会したのです。丸尾さんの時間と、私の時間が呼応したようにも感じました。
彼女もまた、よじれて天を刺すような糸杉や、切り立った岩のせいで建築ように思える自然を見つめていたかもしれません。風はどうだったでしょうか。そろそろ名物の北風が吹き始める季節です。私は飛ばされそうにふらつきながら歩いたものでした。だから今でも、セザンヌが松の枝を写生する時に、何本も描きこむためらいの線を見ると風を感じます。あそこでは、枝が絶え間なく揺れているからです。ゴッホの絵にある、緊密にからみ合ったヒースを見ても、風の波動がつたわってきます。プロヴァンスの風は、そんなふうに、体にインプットされてしまうほどだったのです。

吹きっさらしをこらえて歩いている二十代後半の私の胸には、人生の行手の不安が渦巻いていました。学業も打ち捨て、勿論就職のメドも立たず、なんのよりどころもなく、ただふらついているにすぎなかったからです。体じゅうにすき間風が入りこみ、まぶしい光のしぶきはトゲのようでした。

丸尾かおりさんもそんな事情をかかえていた、などと思ってはいません。まさか、そんなことはなかったでしょう。それにしても私は、あのプロヴァンスの鮮かな視界と抱き合ったなだめようのない不安が、私の青春そのものだと思っていますから、同じ場所で、突然消えてしまった日本人の命を、痛々しく、ジカに感じるのです。

トラ部屋はいかが

今ならば煙草は自動販売器で、四六時中手にはいりますが、二十数年前にはそうではありませんでした。深夜一本もなくなってしまい、困りはてることがありました。そんな時、私の救いは警察署でした。自宅から三百メートルほど離れたその建物には、常に蛍光燈がついていて、入口のカウンターにガラス張りの箱が置いてありました。なかにお目あての物が並んでいたのです。警官に一箱ゆずってくれと頼みますと、わずらわしそうに、どれかと聞き、それを投げるようにしてよこしたものです。ものにこりない私は、この真夜中の警察署行きを何十回か繰り返しました。無愛想だった警官たちのなかの一人と、やがて仲よくなったほどです。

やがて藤枝署が新築された時、彼が私に言いました。あなたはものを書いているそうだから、よかったら見学させてあげてもいいよ。私はすぐに応じ、彼の案内で、ま新しい内部を見せてもらいました。彼はやや得意そうに説明してくれました。その時、特に私の注意をひいたのがトラ部屋だったのです。四畳半でしたでしょう。畳の香も木の香もういういしい、明るい部屋でした。泊めてもらった人には、翌朝味噌汁の朝食がでるとのことでした。私は、自分のうっとおしい堆積に埋まった仕事部屋と比較して、なにも無いそこを好ましく感じました。一度泊まってみたい、とさえ思いました。

ところで、数日して、この部屋は活用されることになったのです。それには以下のような経緯がありました。

夜なかの二時ごろだったのでしょうか、散歩しようと思って、離れの二階からおりてゆくと、棟の入口の戸が開いていたのです。それを不審に思うのと同時に、庭を走る白いものを見ました。で、正体を見きわめようとして、しばらく屋敷のなかを歩いているうちに、木立ちにひそんでいる人影を察知しました。見つけられたとわかったのでしょう、影はまた走りだし、塀を乗りこえて、表の通りに逃げようとしたのです。私は追いかけました。

ところで、私は門の鍵の開けかたを知っていますので、とどこおりなく表の通りへ出ますと、逃走者はまだ塀の上にいて、鼻先に飛びおりてきました。鉢合わせした二人はジッと睨みあった末、やがて問答を始めたのです。

どうしたんですか、一体、と私は訊きました。今夜飲んでしまって、家へ帰る車代がなくなってしまったんです、それで、お宅の軒をお借りして休ませてもらおうと思ったんです、と言うのが彼の応えでした。

言われてみれば、そんな感じもしました。彼は痩せていて、かなりハンサムで、しかも気が弱そうな青年でした。額に垂れた前髪の影で、しきりに動く大きな眼は心がおののいている証拠でしょう。もし彼の様子が不逞であったり、面魂をほのめかしたりしていたら、私もあんなに落着いて話していられたでしょうか。

同情して、泊めてやろうか、ともチラと思ったのです。しかし思い直しました。なぜなら、確かに彼は、離れのなかにまで侵入した形跡があるからです。

君、警察にね、行きくれた人を泊めてくれる部屋があるんだよ。そこで寝たほうが、こんな所で寝るよりもいい。朝めしも出してくれるんだそうだ。

是非そうするように言い、私は青年を玄関まで連れてゆきました。そして、彼の眼の前にある電話で警察に連絡したのです。有無を言わせぬ仕方で、彼に圧力をかけるつもりは毛頭ありませんでした。トラ部屋が清潔で、しかも日本人にはなつかしい感じでしたから、こんな夜の彼には最適だと思いやったのです。

泥棒との会話

泥棒との会話  泥棒には割と縁があります。 もう三十数年も前、大森に住んでいた時のことです。洗面所の窓ガラスをパチンと割られ、そこから手を差し入れられて、錠をはずされ、侵入されました。大した現金も金目の物もありませんでしたが、なにしろ盗られた品目が多いので、警察に呈出するリストだけはにぎやかでした。にぎやかすぎて、私の持物としては大物のネクタイ・ピンを書き忘れたりしました。 半月ほどして、彼は本郷の本富士署にあげられたのです。呼び出しがあって出向きますと、なつかしい品物が、一室のテーブルの上に並んでいました。警察官の話すところでは、泥棒は盗品のコレクターとのことで、地下室を倉庫兼陣列場にしていたのだそうです。江戸川乱歩が有名にした怪人二十面相の影響かもしれません。二十面相のように、彼もまた美術品に執着したのでしょう。なぜなら、絵描きのアトリエらしく見えたからしのびこんだ、と供述したそうですから。しかし、ほとんどまったく見こみ違いだったのです。ただ一点、火襷(ひだすき)の入った古い備前焼きがありましたが・・・・・・。 

それから三月ほどして、また泥棒に入られました。家が無人(ぶにん)だった時、雨戸をはずして侵入したのです。彼もまた多くの品物をさらって行きました。前回盗られて戻ってきたものが、相ついで、もう一度盗られたのです。しかし、やがてさらに三月ほどして、品物たちはまたゾロゾロと元の不実な持主のところに帰還しました。

この泥棒が横須賀の警察にあげられたからです。 私が持物をとり返してほっとしていますと、そこへ一通の封書がとどきました。文面はざっと以下のようでした。 小生は某日の何時ごろお宅さまへしのびこみ、あなたさまの大切な財産をかすめとった者です。でき心であんなことをしてしまいました。どうかどうかお赦しください。つきましては、身勝手なお願いで、われながら恥入るばかりですが、あなたさまから、お赦しのお言葉をいただけませんでしょうか。小生は病人で、使ってくれるところもなく、生活苦にあえいでおります。こんなお願いを申しあげる筋合いでないことは、重々承知しておりますが、どうか、お聞きとどけくださいませ。 宛名は警察にしてほしいと書いてあったかもしれません。私からの嘆願書がほしい、という趣旨がもっとくわしくしたためてありました。 これを読んで、私の文士根性が目ざめてしまったのです。私は封筒の裏にあった住所をたずねて、彼のすまいへ行きました。横須賀の、たしかシャングリラというところだったと思います。あるいはそのほとりだったのか・・・・・・。

昼間だったせいか、シャングリラ(理想郷)から連想される歓楽のおもむきは感じられない一隅でした。彼は一間だけの仮設住宅にいましたが、あがりかまちに坐って、お辞儀ばかりしましたので、私はいたたまれない気持になりました。しかし我慢して、会話に入ろうと努めたのです。なぜ大森などへ来たのか、と聞くのは悪いと思ったのですが、彼のほうからそのわけを話し始めました。数日限りの働き口があって出向いた、その帰りに少し酒を飲んだのが悪かった、気が大きくなって、とんでもないことを考えてしまった、と言うのです。 こんな話から始めて、彼は自分の病気のことなど身の上話もしてくれました。そして私は、警察へ届けるのを忘れた盗品--鞄を彼の手から受けとり、それを提げて帰途についたのです。

仰天、乗用車

かつて志賀直哉と会った時に、見ながら書くことが大事だ、と教えられたことがありました。絵描きのように、眼前の実物を写生するという意味ではなくて、執筆する前に、場景なり人物をしっかり思い浮かべなさい、というのです。 静かな夜ふけは、その目的のために好都合のような気がします。闇のしじまが枠になって、そこにイメージが浮かびあがることが多いからです。文士にとっての蜃気楼は夜のほうが現れやすいと言えそうです。 私が暗がりの散歩を好むのは、以上のような想いがあるからです。昼の散歩にも良さはありますが、たとえその時間が夜分にずれこんでしまっても、深夜になってしまっても、これもチャンスだと思いつつ散歩に出ます。しかもなるべく町場を避けて、農地に出て、闇を縫って歩くのです。雨でも降っていれば、いい気になって、深草の少将の百夜通いのおもむきだ、と内心うそぶいたりすることもあります。

そんなある夜、霧雨の広い空間を枠にした妙な光景を見てしまったことがありました。どぎつくヘッドライトをつけたままの乗用車が仰向けに転がっていたのです。大亀をひっくりかえしたおもむきでした。そこはかなり広い苺畑でしたが、踏みこんで行ってみました。すると、車の運転席のドアが開いて、一対の男女がはいでてきました。この際自分はどうすべきかと私は一瞬ためらいましたが、考え直して、さらに近づいて行って、大丈夫ですか、と声をかけてみました。

腹を出してしまった車のかたわらに、二人のシルエットがもつれて、よじれる恰好で立ちあがったさまは、夢の中の場景のようでした。男はななめにこっちを見て、強がっている感じで、大丈夫ですよ、と応えましたし、女は男のかげに身をかくすかのようでした。相手がこちらを警戒しているので、こちらもいくぶん臆してしまい、瀬踏みし合っているような、おかしな雰囲気になってしまいました。しかし、すぐにその感じは消えました。相手が、小川さんですか、と言ったからです。それで、彼をしげじげと見つめることができて、私も思い出しました。友人の事務所を訪ねた時、そこで彼と会ったことがあったのです。 ぼくは困っちゃいました、車、どうしたらいいのかなあ、と彼はかなり打ちとけて言いました。私は彼にも女性にも、どこかを打たなかったか、痛いところはないか、と聞きました。ない、という返事でしたので、ともかく車のライトを消し、私の家まで来るようにうながしたのです。

案の定飲酒運転でした。現場の近くの飲み屋におそくまでいて、帰宅するホステスを送ってやろうと乗せたのだそうです。若干登りになっている道を走り、T字になってきているところへ出てきて、曲りそこなって、一メートルほど下の畑へ転落してしまったのです。 車も千鳥足だったでしょうか、と私が聞くと、そんなことはありません、道がおかしいんです、前方に雨だけしか見えなかったんですもん、と彼は反撥しました。目撃してしばらくは、夢を見ているようだった、と私が言うと、ぼくも怖ろしかった、あなたが幽霊みたいに現れたんですもん、と彼も闇から湧いた人影にあきれていました。 女性はすぐにタクシーで家に帰し、私は県警の警邏隊に所属する知人の警官に電話して、相談したのです。それで、翌朝早くレッカー車が現場に来て、後始末してくれました。ことは内聞で済んだのです。人間に怪我がなかっただけでなく、車もまた、柔らかな苺畑のおかげで、かすり傷ひとつ負いませんでした。畑の持主への補償は四千円だったそうです。

聖書 愛読

聖書は何回か通読しています。特に最近必要があって、新約聖書をくわしく読んでみました。そして確認したのは、その平和主義でした。言うまでもなく、イエスは論敵と徹底的に言い争っています。特に激しい罵りにさえなります。しかし、あくまでも言葉であって、言葉をもって終っているのです。もし私が望むなら、神は十二隊以上の軍勢を送ってくださるだろう、しかし、私は望まない、と彼は言っているのです。 このことに加えて、イエスの言葉には大切な示唆があります。今日敵であっても、明日は彼と友達になれるように心がけよ、と言っているのです。この可能性の実現のために、あらゆる苦難を越えるように、と。 それにしても、イエスの教えの主旨がくまなく、すっきりと割りきれるところまでは、私の理解はとどかないのです。それで、新約聖書の書き手は、一体何を考えていたのだろうかと思い、途方にくれることさえあります。 聖書には問題点が実に多いのですが、それらを広く論じるのはこのエッセイの形では無理ですので、私の一番の気がかりだけを、あげておきます。

イエスは弟子にむかって、上衣を売って剣を買え、と命じています。これも言葉だけであって、実際に剣を振るうことは厳しく禁じるのですが、それならば、なぜこのように紛らわしいことをあえて口走ったのか。彼が身をもって示した平和主義と、どう関連づけたらいいのか。

次に使徒の言動に目を向けてみますと、ここにも平和主義を危くするようなくだりがあります。使徒たちはイエスが処刑されてから、共産主義的な教団を組織するのですが、アナニアとサフィラという夫妻が、その規約を守らなかったのです。すると使徒ペトロは夫のアナニアを厳しく責め、アナニアは罪の意識にもだえて死んでしまいます。ペトロは更に妻のサフィラをも問いつめ、彼女もまた恐怖のあまり命を落すのです。この際の譴責は凄絶です。

サフィラよ、お前の主人を埋めた青年たちの足音が戸の外でしているのが聞えないか。 ペトロが自ら手をくだしてこの夫妻を殺したわけではありません。神罰がくだったと言いたいのかもしれません。それにしても私には、脅迫だ、としか思えないのです。 新約聖書がこのような矛盾点を抱えているのが、私には解(げ)せないのです。そして更にヨハネ黙示録も、平和主義の原理に抵触する疑いを抱かせる文書です。

以上のような問題点は、不思議にも聖書の迫力となり魅力となっています。だからこそ、なおさら聖書を読みこもうという意欲が動くとさえ言えるのです。しかし、それにしても、厳しく警戒しなければならないことがあります。これらの局所をとりあげて、暴力主義のための口実とすることがあってはならないのです。全体を通読すれば、この本が説いているのは無条件の愛と平和であることは明らかです。愛読者である私は、そのことを保証する権利があると思っています。

聖書の愛読者もまた、理解を目ざす道の半ばにいるのでしょうが、彼には、何が曲解であるかははっきり見えるのです。あるキリスト教徒の学者が、戦争に従軍した場合には人を殺してもいい、裁判官なら死刑を言い渡すこともできる、と言いました。勿論私もそのような見解があることは知っていますが、もしそう主張したいのなら、聖書を離れて、自分の意見だけれどと前置きして言うべきです。しかしその場合、彼はキリスト教徒と称(よ)び得るでしょうか。聖書を読もうともしていないし、したがって知らないのですから……。

警察官も失敗

警察官も失敗  単調な暗がりを行くばかりの深更の散歩も、たび重なりますと、一風変った、昼間にはお目にかかることができない眺めを見せてくれることがあります。路地を歩いていて、かたわらの塀から跳びおりてきた男に出くわしたことがありました。彼は風のように闇のなかに走りこんで行きましたが、これなど泥棒と考えるべきでしょう。 また、私の接近に気づかないで、神社の境内でうごめいていた人影があったものですから、木の下の闇に身をひそめて、彼の行動を観察していたことがありました。すると彼は、境内から出て、近くの住宅の鉄柵によじ登りました。私はその靴の下へ進みでて、見上げて、きみは一体何者かね、と訊きました。すると、ぼくはこの家の者ですよ、戻るのがおそくなってしまったもんですから、と応えました。深夜の帰宅だったのです。その証拠には、柵の中で飼犬がうれしげに鼻を鳴らし始めていました。彼は一瞬にしろ見とがめられて、さぞ心外だったろうと思います。実は私自身パトロールの警官に怪しまれて、5、6回尋問されたことがあり、些事とはいえ、そのたびに口惜しい思いをしたのです。

ところで、警官の失敗を見てしまったこともあります。表通りを歩いていた時のことです。カーブしてもいない、かなり広い道でしたが、私を追い抜いて行ったパトロールカーが、いきなりふらついて、沿道の店に頭を突っこんだのです。ガラスが砕け散り、かなり派手な音がしました。その車を見守っていますと、運転席のドアが開いて警官が走り出て、最寄りの路地へ吸いこまれて行ったのです。実に敏捷でした。あとにはドアが開いたままの車が乗り棄ててありました。やがて物音に驚いた近所の人々が起きてきて、無人の車を囲んで、囁き合っていますと、さっき警官が消えて行った路地から、今度は二人の警官が現れ、車に乗りこんで走り去ったのです。 一部始終を観察するめぐり合せとなった私にとっては、事の成り行きが推理できたのです。車のふらつき具合からして、酔っぱらいか居眠り運転だったのでしょう。咄嗟に現場を放棄したのは制服の警官でしたから、居眠りと見るべきでしょうか。彼はそう遠くない警察署に走りこんで、同僚に失敗のあと始末を依頼したのに違いありません。実に迅速な対応でした。そして、数日後聞いたところによると、被害者宅へは、翌日警察から人がきて、陳謝し、補償したとのことです。 交通事故を第三者が外から逐一見ているケースは、案外少ないのかもしれません。私も何回も見たというわけではありませんが、以上の事故と更にもう一度見ているのです。これもまた深夜の散歩の自然の成り行きで、まるでスローモーションビデオのように、私の網膜に映しとられてしまいました。 中年の酔漢が道を渡っていましたので、来かかった車はかなり距離をおいて一旦停止し、彼が渡りきるのを待ったのです。渡りきりました。だから走りだしました。ところが、歩道にたどりついた相手が、反射的に引き返したのです。車に跳ねあげられ、路面に落ちて、彼は動かなくなってしまいました。運転者は若い女性でした。何の落度のないのに動転してしまい、泣かんばかりでしたので、私は酔漢の状態を観察してから、歩道へ寝かせ、電話ボックスへ走りました。救急車と警官が駈けつけました。その間、私は純情な彼女を慰めながら、証人になろう、と思っていたのです。夜更けの単独歩行者にとってはまれな、生き甲斐が感じられた一幕でした。

輪廻転生説

十年ほど前、私は聖書学者と親しくつき合っていました。新共同訳聖書を作ろうとして、チームを組み、一緒に働いていたからです。その過程で、優れたチームメートから、実にたくさんのことを学びました。たとえば、聖書は学術書でもある、と教えられたこともその一つです。そう思って読むと、旧約の創世記とかヨブ記とかには、生物学を始めとする諸学問の知識や見解が多く含まれていて、しかもなかなかのものであることが見えてくるのです。 とは言っても、勿論現代の科学とは較べものになりません。生物学でいうなら、昔は顕微鏡などの観察、実験の機器もなく、学者同士の交流もせまく限られていたのですから、水準が低かったのは当然です。 しかしものの見方に関しては、現代人をハッとさせるものがあります。こういうこともある、こういうこともあると書いて行って、それにしても未知の領域のほうがはるかに大きい、人間は小さな自分を自覚し、謙虚でなければならない、と言うのです。つまり、ここには専門の知識もあり、同時に広い視野もあるのです。知の分野と情(こころ)の分野を一つながりのものとして説いているのです。 仏教の経典については、私は多くを知りませんが、それでも輪廻転生などの講義を聞くと、聖書と似ているな、と思うのです。

この説は、言うまでもなく、生命とは何かを問うています。個体の生命と種の生命はどう関係するか、あらゆる生命の本質をどう説明したらいいのかと、(今日の科学者が生命の起源とか、その遺伝、その進化などを考えるように)古代の科学者も考えていたに違いありません。 それにしても、私が感心するのは、やはりこのような知の分野から情の分野へ、自然に想いをひろげて行く心の在りかたです。 自分という生命体は常に生き続けることを願っているのだから、他の生命体も同じことを願っていると思いやらなければならない。つまり、自分がそうありたいことを、他者にもしてあげなければならない。これは愛(慈愛)の極意ですが、輪廻転生説は実にうまくその根拠を説き明かしています。生命の本質を知れば、自分と他者は分けへだてできないものだ、ということが解るだろう、このことわりを悟ることがすなわち慈悲なのだと言うのです。 しかし、注意しなければならないことがあります。仏教の本流では、輪廻転生説は、以上述べたような愛の教えとは見なされていないことです。むしろ生命体であることの哀れさ(ミゼール)として説かれる場合が多いのです。生命を否定的にとらえているのです。ここに仏教の厭世観の源があるのですが、同時に、この見方は解脱とか無の深い教理につながって行くので、決して否定のための否定とは言えません。このことについてもくわしく述べたいのですが、読切りエッセイでは無理ですので、今回はむしろ、以上の厭世観から派生した迷信に触れておきます。今もなお、あなたの前世は畜生界にあったとか、来世もそうであるかもしれない、とまことしやかに言う人があります。まさかお釈迦様がそんなことを言えと教えているはずはありません。本来高い次元にあった教理が、歪められ、通俗化したあらわれなのです。優れた輪廻転生説が個人的な怨恨とか呪いとか差別のための口実とされてしまっているのです。これを脅しとして使い、相手の不安につけこんで、金儲けをもくろむ人もいます。カルマとかカルマ落しと言いたてるのも同じたぐいです。

焼津はギリシャに似ている

立原正秋が亡くなって十五年になります。それより更にさらに十七、八年前、彼は売れない文士で、私の住む藤枝へ時々遊びに来ては、やはり売れない文士である私と、近隣を歩きまわったり酒を飲んだりしていたものでした。初春の晴れあがった日に、二人は焼津港へ行きました。私の家からバスで二十分くらいかかります。海が見えはじめたあたりで私は、この辺はギリシャに似ている、と言ったのだそうです。それきり私は言ったことを忘れていましたが、しばらくして立原は随筆に、小川が焼津はギリシャに似ていると言っていた、妙なことを言う奴だ、今度会ったらそのわけを聞いてみようと思う、と書いたのです。彼は同じことを詩にもしています。 藤枝から焼津にぬける二月のバスのなかで こんな日のこの辺はギリシャに似ているときみは語った (略) いまはいい時代だろうか  とぼくは訊いた するときみはギリシャのことを話した (略) あの真書の白い一刻をぼくは憶えているよ

立原正秋はしっかり記憶にとどめていたのです。すると彼のはっきりした回想に助けられて、私もその一刻のことを思い出しました。こうして、親友立原とたび重なる交流の中で、この日の焼津港散歩は特に印象鮮明なひとコマとなりました。 私があのように表現したのは、その更に七年ほど前、私はギリシャをひとり旅して、来る日も来る日もかの地の海岸を歩いていたことがありましたから、光の質が同一だと直観できた、とでも言いたかったからでしょう。しかし、そんな説明をしても笑われそうです。紺青の海、透明な視界、松の多い海岸など、どこでだって見ることができますし、水平線に浮かぶ伊豆にエーゲ海の島々の面影がある、などと言い張っても、平凡な感想と一笑に付されるかもしれません。
だから、私としては、極めつけの根拠がほしかったのです。そこで持ちだしたのが小泉八雲です。よく知られているように、八雲はエーゲ海のサンタ・マウラ島で島の娘を母とし、駐留軍のイギリス士官を父として生まれました。そして彼は生涯母の面影を追い求めていたともいえるのです。やがて日本へ渡り、東京大学で講義していた時、たまたま列車で通りかかった焼津に惹きつけられ、ここを避暑地にしようと心にきめたのです。焼津を避暑地とした人など、小泉八雲以外にはいません。偏愛とでもいうべきでしょう。彼は快適な夏を楽しもうとしたのではなく、土地のハートを探求しようとしたことは、その名随筆によくあらわれています。 私は、八雲が、焼津はギリシャに似ているとか、そのたぐいのことをどこかで言っているのではないかと期待し、八雲全集を調べたのですが発見できませんでした。そこで、私の三十年に及ぶこだわりもここが終点か、とあきらめかけていました。 しかし、まだあきらめなくてもよかったのです。知り合いの高島仁子さんという高校の英語の先生が、最近珠玉のニュースを伝えてくれました。彼女によりますと、ニューヨークのメトロポリタン美術館の職員、ジェリファー・ペリーという方が焼津に滞在しているというのです。この方も八雲に魅せられていて、しかも、焼津はギリシャに似ています、かつて小泉八雲もここはギリシャを偲ばせると言っています、との趣意を述べたとのことです。これは今日耳にしたばかりのホットなニュースです。 極東の日本で生涯を終えた遍歴の人八雲にも、象徴的な回帰があった….そう私は思いたいのです。

ハルマゲドン

ハルマゲドンとは、ヨハネ黙示録に一度出てくるだけの架空の地名です。三つのけがらわしい霊が、ハルマゲドンに諸国の王たちを集めて、神の日の大戦の準備をととのえる、と言うのです。三つの霊とは何か、王たちとはだれとだれを指すのか、などの推定の問題もあるのですが、それらは今回は措(お)くことにして、この地名の語源について考えてみます。 古来解釈はいくつもあるとのことです。その中でよく知られている三つの説は、メギドの山、ミグロンの山、集会の山、ということのようです。特にメギドの山とする説は、注目されるでしょう。というのは、メギドはパレスチナに実在する場所で、古代オリエントの戦略上の要衝であり、たび重なる激戦の舞台でもあったからです。今世紀に入ってからその大兵営の遺跡の発掘が進み、たしかな裏づけも得られました。だから神の日の大戦の場として、ふさわしいモデルであるようにも感じられるのです。 この地にはおびただしい兵士の死体が転がったであろう・・・・・・、と思い描く古代史的幻想は、三千年をもへだてて、第一次世界大戦の惨状につながったように思えます。毒ガスが流れ、弾丸の雨を浴びた近代戦の修羅場が、メギドすなわちハルマゲドンさながらだ、と感じられたのに違いありません。事実、この語は一次大戦中俄然現実感を帯びて浮上してきて、やがて拡大解釈され、一人歩きを始めてしまった観があるのです。

ある現代語の字引を見ますと、ハルマゲドン、世界最終戦争のこと、と書いてありました。現代語ではそうなるのかもしれませんが、しかし、これはあくまでも俗説であって、ヨハネの預言とは何の関係もありません。彼は驚きあきれているでしょう。なぜなら、彼の書は、世界最終戦争のことなどにはまったく触れていないからです。 次のような一節から、誤解は生じたのかもしれません。 天使は太陽の中に立って、空の真中を飛んでいる鳥に向い、声を張りあげ言った。お前たち、神が招待する大宴会に集れ。諸国の王の肉、千人隊長どもの肉、権力者どもの肉、また馬の肉、馬に乗る者どもの肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、大物、小物どもの肉をついばめ、と。私が更に見ると、例の獣と地上の諸王とその軍隊とが結集していた。彼らは白馬にまたがった方と彼の軍隊(天使たち、筆者注)に戦いをいどもうとしたが、獣は逮捕され、また偽預言者も相ついで逮捕された。この者は、今まで獣の前で不思議なわざをし、これによって獣から印章を受け、その像を拜むやからを惑わしていたのだ。逮捕された両者は、ともども、硫黄が燃える火の池に投げいれられた。その他の者どももことごとく、白馬にまたがった方の口から出る剣で殺され、肉は鳥についばまれ、鳥は腹を満たした。 キリスト教徒を迫害した者たちが、最期をとげる様です。ヨハネの筆は容赦なく凄惨な場景を描きだすので、私たちは錯覚して、これは大戦争の終局かと思いそうになったりしますが、しかし、黙示録全体をよく読みますと、決してそんな趣旨でないことが解ります。キリスト教徒の軍隊など存在しないのです。したがって勿論、それが反キリストの軍隊と会戦し、死闘をくりひろげる場面などあるわけはないのです。ヨハネが言いたかったのは、前述の象徴的描写にあるように、迫害者たちに神の審判がくだる、ということだけなのです。 あなたたちはイエス・キリストを信頼し、彼によりすがって迫害に耐え続けなさい。そして、ひたすら最後の審判と、それにともなって現れる理想の国を待ち望むように、と彼は勧めているのです。ヨハネ黙示録は神の審判の書であり、同時に不戦の書なのです。

モロッコの二人芝居

モロッコの南の町マラケッシュには、死者の集会所といわれる広場があります。露店や屋台でさまざまな新品、中古品を売っていたり、大道芸、軽業が演じられたり、見世物の猿が歩いたり、蛇が這ったりといった具合で、死者などそっちのけの大賑わいです。 ここで芝居をしている二人の男がありました。私は熱中して見たのですが、ストーリーは全然解りませんでした。だから、一区切りになると、かたわらにいたモロッコ人をつかまえて、シシカバブーの屋台へ連れこみ、おごるから説明してくれともちかけました。彼はフランス語がうまかったからです。 彼がしてくれた話にやや潤色を加え、私なりに語りなおすと、以下のようになります。 旅の商人が自分の馬を酷使したというのです。馬はつぶやきました。これではたまらん。荷物は馬の積載量をオーバーしているし、それに加えて、やっこさん、時々自分がまたがったりする。逃亡しよう。 夕暮れに次の宿駅に着くと、泊まるために荷物を背中から下ろしている主人と人足のすきをうかがい、馬は走りだしました。彼らの目をくらますのには成功しました。しかし背中にはまだ荷物の一部がくくってあったのです。商人にとっては虎の子の砂金とお香でした。

商人は馬を探しまわり、翌日の正午になってようよう発見しました。彼が見たのは、大きな涸谷(かれだに)をへだてて、向こう岸の斜面で一休みしている馬だったのです。商人は途端にむかつき、大声で怒鳴りました。このバカ馬、手前をぶっ殺して、馬肉の切り身にしてやる。すぐに谷を渡ってこっちにこい。 いつもの調子だったのです。しかし勿論、馬が応じるはずはありません。そこで商人は態度を変えて言いました。そうか、それほどこの先の椰子林へ行きたいのか。気ままに暮らしたいのか。無理もない、許可しようじゃないか。しかしな、お前の背中には砂金の袋とお香の袋がくくりつけてある。俺には命より大切なお宝だ。それだけは返してくれ。そうしたら、馬具も綱もほどいてやる。好きなところへ駈けて行け。 しかし馬は、やだよと頸を振りました。商人は言いました。それじゃあ俺がそっちへ行くからな。もうしばらく休憩していろや。 馬はやだよと頸を振りました。相手の魂胆を見抜いていたからです。やっこさんに近づいたら、とっつかまってしまい、仕置きを受け、またあの苦界に引きずりこまれる….。 商人はまたしばらく考えていて、口を切りました。お前は疑っているんだな。よし、俺は宝物をあきらめよう。お前、そのうちに、どっかへ振り落せばいいさ。コキ使って悪かったな。立ち去るがいい。それにしても、四年も苦労をかけたんだから、はなむけに食い物をプレゼントしようじゃないか。俺の宿駅までもどって、飼葉をかかえてまたここへくる。そいつを谷底へ投げて、ただちに姿を消すからな。俺が見えなくなったら、お前はひとりで谷をくだって、ゆっくり食べればいいさ。それからあこがれの椰子林を目ざせばいい。 腹を空かしていた馬は、この誘惑に負けてしまったのです。商人は宿駅へもどって飼葉を調達しました。しかし、その中に鉄砲をかくしたのです。彼は涸谷のほとりにふたたび現れると、素速く飼葉の中から銃を抜きだし、馬の腹に二コの弾丸を射ちこんだのです。 致命傷を受けて倒れた馬に商人が歩みよってしゃがむと、声が聞こえてきました。ご主人様、自分は緑の林へ行こうとして行けなくなりました。この上は、どうか神様にお祈りください。私めが、あの世の楽園へ行けるようにとお祈りください。

変わらぬ敬愛の念

大学へ入って東京へ出た私は、当時すでに盛名のあった宝生流の高橋進師のもとへ入門しました。親戚に勧める人もいましたし、それに、一足先に入門した弟も誘ったからです。私たちは大森で一緒に住んでいて、師は隣人だったのです。 稽古に行ってまず驚いたのは、師の大音声(だいおんじょう)でした。障子がビリビリ鳴るほどでした。しかも、噛んでふくめるように発音するのです。しっとりした日本の情緒などを期待したのは大間違いでした。さらに聞いていますと、間の取りかた、拍子の合わせかたが厳しく、たとえば、アという母音を三拍伸ばせという場合には、ア、ア、アと三回発音して念押しするのです。 なるほど、これが基本だ、と私は思いました。納得できました。それで、師を忠実にまねようと決意したのです。ところが、しばらく習ってから、稽古仲間にいわれたことがあります。日く、小川さんの謡いは石炭箱を引きずっているみたいだ。・・・・なぜでしょうか。私は極力師の謡いをまねたのです。自分には、たしかに師と似ていると思えるのです。しかし、彼らは師は絶賛して、私のことは石炭箱と笑ったのです。 私たちの住居は岡の中腹にあって、私の部屋からは、目の下に師の家の舞台が見えました。ここで令息の章さんや勇さんがパンツ一枚で舞っていて、師が見守っているのをよく見かけましたので、なぜあのようにするのかと訊ねますと、裸にすると骨の動きがよくわかる、ごまかしがきかない、との答えでした。

当時四十代半ばだった師が、学生の私たちのところに時に遊びに来ることがありました。こんにちは、いますか、と突然やってくるのです。私たちが恐縮し、馴れない手つきで酒肴など準備し、接待しますと、師はご気嫌で、しきりに冗談を言うのが常でした。後に、なぜ僕たちのような青二才のところへ来てくださったのですか、と話に出しますと、いや、やはり、時には夫婦喧嘩もありますからな、その際にはお宅様へ避難させていただきました、とのことでした。 私の謡いは挫折しましたが、弟は、大学を卒業して郷里へ帰っても続けました。それを良しとしたのでしょう、高橋師は静岡へ月一回出稽古をしてくれました。だから私も、引き続きおつき合いをすることができたのです。当地の想い出もまた数珠つなぎです。それらについて、いくつかくわしく書く機会もあるでしょう。今回は鰭酒を飲みながらうかがった師の言葉だけを、記しておきます。 私の中には芸があります。その一部分でもいいから、ありのままに、だれかの中に残したいのです。ですら、稽古をつける相手に、私は分けへだてをしません。素人にもプロを目ざす人にも、まったく同じように教えます。いい加減な謡いを残してはならないからです。 高橋進師が逝ったのは、一九八四年十月ですから、私は三十五年にわたって、かけがえのない交際(特に肉声)をめぐまれたことになります。

海面すれすれを飛ぶ鵜は私の原イメージです。四歳の時でした、山東戦役から帰った父から軍用の双眼鏡を手渡され、覗いてみたら、この光景が見えたのです。 そこは静岡市の南西に位置する断崖の裾で、白い冬の波がレースのようにまといついていました。その名も大崩(おおくずれ)….昔も今も鵜の棲息地です。この黒づくめの鳥は根っからの野性で、鴎のように港に群らがったり、船のマストにまといついたりはしません。険しい足場が好みです。 今も私はこの鳥の生態を見ようと、自宅から五キロほどある大崩へ行くことがあります。みぞれまじりの風がぶつかる崖に二十羽とか三十羽、点在している様は、集落にくまなく配置されている自警団のおもむきです。夜の岩場へ下りて行くと、潮騒にまぎれて、その怒り肩の影がひっそりと動いているのが目に入ることもあります。 水にもぐれば敏捷なのでしょう。海をかすめて飛ぶ姿も精悍です。しかし岩に登った時の身振りは円滑とはいえません。のろのろしているといいたくなるほどです。 だから、ワッカを持ってしのび寄る人間につかまってしまうのでしょう。島根県の益田へ行った時にも、茨城県の日立へ行った時にも、鵜を捕獲する技術の話を聞きました。その目的は、いうまでもなく鵜飼です。

海の鵜に誘拐の危険が待ちうけていることには、私には幼ななじみの鳥であるだけに、感慨があります。幸いに、現代ではほんのわずかな鵜だけが、川へ連れて行かれ、飛べなくされ、奇妙な勤めをしています。しかし、その昔は、もっともっと多くの鵜がこの運命をたどったのです。なぜなら、この鳥を使ってあげる漁獲は、食糧としてアテにされていた時代があったからです。 謡曲<鵜飼>はこの間の事情を物語っています。甲斐の国の石和(いさわ)川の流域でも鵜を使う人は多かったといっています。そのうちの一人が、十数キロにわたってもうけてあった禁漁区で密漁していたのを見つかって、村人たちに簀の子巻きにされ水につけられ、殺されてしまうのです。 ところでこの曲の見せ場は、鵜飼を描写している場面なのですが、まず篭から出す鵜のことを<島つ巣おろし荒鵜ども>つまり、岩礁の住みかから連れてきた野性のやつら、と言っているところに、私は惹かれます。私の観察にピッタリだからです。それから、川底まで明るくするかがり火、鵜の抜け目ない潜水ぶり、などを描きつつ,恐ろしい殺生なのに、なんとおもしろいことか、われを忘れてしまう、罪深いことです、と鵜使いは告白します。 その告白を聞くのは日蓮上人です。この時彼は旅の苦労にやつれていたといいますし、相手は心をこめてもてなしている感じですから、私は勝手に想像をして、日蓮は鮎をいただきながら、いいか、殺生は固くつつしまねばならぬ、しかし美味だのう、鵜は稀に見る名鳥じゃ、礼をいいたいのう、しかし罪深いことじゃ、済まぬが、塩焼きの追加を所望いたしたい、などと言ったのではないかと思うのです。

眠るのにも骨が折れる

滞仏中、二十七歳だった私は中古の単車を買って、さすらいの旅に出ようと思い立ちましたが、その試乗の段階で、かなり大きな事故を起こしてしまいました。急坂の九十度に近いカーブを登りながら、いきなり視界に現れたアルジェリア人にぶつかってしまい、彼の肋骨を二本折り、自分もかたわらの石垣に突っこんで、くるぶしの筋肉を切断したのです。 その際の困惑と恐怖とは、後にいく度も夢となって再現されました。夢の中で友達の忠告が聞こえたこともありました。君、カーブを切るときには曲がる側に充分に体を傾けるんだよ、と言う彼の声を耳にしながら、私は体を固くしてハンドルを握っているのです。しかし、歯をくいしばって体を傾けても車はままにならなくて、輪は外へ外へとはみ出して行くのです。脹らんだカーブしか切れないのです。 そこで目が醒めました。そして自分の姿勢に気づいたのです。化石状の私が、蒲団の上に半ば起きあがっていたのです。ハンドルを握っているかのような手つきをし、必死に体を傾けようとしていました。 眠るのにも骨が折れるのです。夢の世界に捲きこまれてしまう度合が、自分は強いのかもしれない、とわが身をかこちたくなります。

生来不器用で臆病な私は、その後もいく度か単車の事故や事故の寸前を体験し、そして、まるで宿命のように、夢で改めて再体験する仕儀となったのです。しかし、さすがに最近はこの種の夢は終りました。 それに較べてしつこく、今に到るまで夢に出てくるのは、同じ時期にしきりと私を襲った中途退学と落伍の悲しみです。当時私は、大学に行くのをやめてしまい、身の振りかたも定まらず、お先真暗な心境だったのです。それでいて、単車でヨーロッパを(主として地中海沿岸を)駈けめぐっていたのです。これを、人生を暴走していたと言ってもいいでしょう。しかも、図太い気持にはなれなくて、そんな堕落を嘆き続けていたのです。 先夜も、夢の中で、スペインの南のはずれの地方にいて、一面に光の鱗を浮かべている海を見ながら、とんでもないことになっていると呟き、胸が潰れる思いでした。 そのころの心配と関連するこんな夢を見たこともあります。退学してしまったから、もう一遍大学を受け直そうと思い立ったのです。そして試験場へ入ったのですが、出題の刷り物を見ても、皆目解らないのです。かつて努力した受験準備はさっぱりと消え去っていて、頭の中は真白でした。仕方なく、机上の用紙を重ね合わせ、監督の教官に返して、試験場を出たのです。そして近くの池のほとりまで歩き、小高い岡の上にそびえている大学の建物を仰ぎ見ていました。 やがて眼を醒ますと、口惜し涙で目尻が濡れていましたので、なんだ、一体、お前は、と呟いて自嘲してしまいました。こんな退行的な性質を自覚させられるのは気分のいいことではありませんが、しかし、思い直せば、かすかな救いもないことはないのです。青春の涙が、六十過ぎまで体のどこかに温存されていて、にじみ出たようにも思えるからです。

壇上の格闘

講演とか講義を時々しますが、うまく行ったためしがありません。ほとんどの場合、途中ですでに意識阻喪してしまい、まずいものが更にまずくなって行くような具合です。それでも続けてやっているのは、受けなければならない事情があったり、それに、もの怯じする自分を、いいから更に挑戦してみろと督励する自分がいたりするからです。 かつて北海道大学で、学生会の主催で話した時も、手持ちの時間がきてしまったのに、話のまとまりがつきませんでした。しきりと下手の上塗りをしたましたが、くどくなるばかりで、適切な言葉が湧いてこないのです。そのうちに、伝令がメモ用紙を持って現れました。見ると、やめるように、と書いてありました。それでも頑張りました。すると二回目の伝令が来ました。そして三回目の伝令は、もう消燈します、というメモを運んできました。夜分の講演会だったのです。

酷評されて然るべきだったのです。しかし、ガッカリして控え室へ戻るとすぐに、今夜の話は、一体あれは何だったんですか、などと言われてしまったら、立つ瀬がないでしょう。こんな時本人は、事実だけでたくさんだ、とでも言うべき心境に陥っているのです。幸いに、北海道大学の諸兄姉は特に心ある人々でした。 こんな悪夢にまがう経験をしている私にとって、井伏鱒二さんの告白は身につまされます。義理があって選挙の応援のために演壇へ登ったらいきなり、引っこめ、と弥次が飛んだのだそうです。途端に弁士は絶句し、では引っ込みます、と言い残して、その場を去ったというのです。すると会場はシンとしてしまい、いいから、頑張ってやれ、という激励の弥次も起ったとか。井伏さんの当座の気持ちはどうであったのか、さすがに千両役者のたたずまいが感じられます。 現駐日アメリカ大使モンデールさんが大統領候補であった時に、渦巻く弥次の中で、ひるまず政見を述べて称讃されたことがありましたが、こうしたことも私の注意を惹くのです。 実は、弥次を飛ばされたことがあるのです。会場である有楽町の読売ホールへ着くのが定刻を二十分ほど遅れてしまい、あわてて舞台へ出ると、おそいぞ、何してたんだ、と言われました。当然の不満を言われたまでですが、言いかたもあって、それだけで私にはショックだったのです。立ち直るまでにかなり時間が必要でしたし、講演全体もまったく不首尾に終りました。 それにしても、この時も、聴衆の一人から慰めを得ることができました。彼は講演会の一週間もあとで銀座で会った未知の方でしたが、私が、眠くなるような話で悪かったですね、と言いますと、いや、眠くなんかなりません、あなたの話は、あとがうまく続いてくれるかどうかハラハラさせますから、かえって緊張しますよ、とのことでした。それにおもしろいことを言おうと努力しますから、笑ってあげなければと思ったりしまして、とも彼は言うのです。行く手に希望を感じさせてはくれませんでしたが、この上なく優しい言葉でした。

神秘体験

自分の現状をこれで結構と思っている人は少いでしょう。だからこそ理想の探求もあるのでしょうが、その場合、大きく分けて二つの道があるように思えます。一つは現実の次元を行く道、もう一つは現実を超えて行く道です。次のパウロの感想を見てください。 自分は地上では旅人であり異邦人であると宣言した人々がいます。彼らは、祖国がないと言ったわけではありません。それを探し求めていたのです。もし想っていたのが地上の祖国だったのなら、彼らはそこへ戻ったはずです。しかし彼らには戻る所がなかったのです。彼らが慕っていたのは、地上の祖国を超えた天の祖国だったからです。 もしこの天の祖国を魂の故郷とでも言い変えるなら、万人が心の奥に抱いているとも言えるでしょう。特に詩人はそうした想像世界を持っています。しかし、パウロの言う意味はそれはまったく違うのです。忍耐して待っていれば、天のエルサレム(祖国)が現実のものとなる、と保証しているのです。だから多くのキリスト教徒は、彼のビジョンを信じ、その深い含意をさまざまに思い描いています。

パウロがこの種のことを語る根拠は、彼の神秘体験にあるのです。しかし話が自分の神秘体験に及ぶと、その確認とはうらはらに、彼は控え目な言いかたをします。自分ではないだれかが体験したことだとか、この体験を誇りに思ったりはしていないとか、つい打ち明けてしまったが….とか、繰り返し言いわけをします。つまり、神秘体験をしてしまったことを、怖ろしいことだ、なぜ自分なんかが….、といぶかしく思っている様子なのです。 以上のような聖書の記述を考えていますと、宗教とは何か解ってくるような気がします。一つには、宗教とは現実の外にあって、現実よりもリアルな世界であるということです。そして一つには、宗教を説く人は、自分の身に起った不思議に驚き、慎み深く、怖れているということです。 ところが、論外の預言者もいます。彼らは自分には見神の体験があるとか、ついに解脱したとか、誇らしげに喋っているのです。そんな連中がなぜ出てくるかといいますと、勿論、彼らを歓迎したい要求(現実を超えたい要求)が人間にはあるからです。ここに危険があります。ある人はその純粋な求道心のゆえにかえって暗示にかかってしまい、まがいものの神秘世界に連れこまれてしまうのです。 かつてある厳格な修道院で、興味深い話を聞いたことがありました。一人の修道士がマリア様が見えると総長に打ち明けたというのです。二人はしばらく話し合って、総長は、あなたの修道の仕方は正しくない、と結論を出したのだそうです。それでも修道士は、なおも自分の体験を主張したので、ついに、精神科の医者のところへ行って相談しなさい、と叱られたとのことです。 この総長は三十年を越える修道生活を積み、神学者としても定評のある人です。いわゆる霊的指導者として、多くの信徒に慕われてもいました。私には深い事情は解らないにしても、ともかく、彼に神秘体験に関する厳しい見解があることは感じられるのです。

日本語が解らない

評論家の新藤純孝さん、作家の田久保英夫さんと三人で旧ソビエトを旅したことがありました。通訳としてつき添ってくれたのは、モスクワ大学日本語科のセルゲイ君でした。この大学院生の日本語は相当なもので、私たちにとってはありがたかったのですが、彼のほうで日本の文学者と接触できたことをありがたいと思ってくれたかどうか、疑問が残ります。なぜなら、彼の日本語に関する質問に、三人がかりでもあまりうまく答えられなかったからです。 一例をあげますと、<卍>は本来どんな意味なんでしょうか、と聞かれて、当方は黙って顔を見合わせるばかりでした。日本の文学者の恥でした(こんなことを書いて、新藤さん、田久保さんのことまでバラした結果になりましたが、ご両所よ、どうかお赦しを….)。 別の一例は、レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)へ行った時のことです。地元の大学の日本語の教授も来て、ここの路面電車は、一八XX年に作り始められました、と説明したのです。すると、それを聞いたセルゲイ君が、おかしな言いかただ、作られ始めました、と言わなければならないのに、と反撥しました。言いかたもあって、二人のロシア人の間にやや険悪な空気が流れてしまったのです。当然日本人に決裁を求められました。しかし私たちにも一致した説明はありませんでした。私は、どちらも結構です、と言い、田久保さんは、作られ始めたと言うべきです、と主張しました。日本人の間まで険悪になっては困ると思ったのか、年長の新藤さんが、この問題も帰国してから調べましょう、と割って入って収めました。

あとになって考えているうちに、田久保さんの主張のほうが私の意見よりも優れている、と思えてきました。その理由は、作られたとは頻繁に言いますが、始められたは、それほど使わない言いかただからです。田久保説のほうが自然な感じがします。 ところで、この問題に最も明瞭な答えをだしたのはドメニコ・ラガナさんです。つまりロシア人が提起した日本語問題に、アルゼンチン人が決定をくだした形になってしまったのです。至極残念なことです。 ラガナさんは言いました。<ここの路面電車は一八XX年に作り始めたんです>と言うのが本当の日本語です。ロシア人にそう教えてあげなければいけなかったんです。そう言って彼は、日本語における受身形、使役形についての考察を展開しました。そして私は多くのことに思い当り、反省したのです。 たとえば私は、財布を落とす、髪を伸ばす、などを変な言いかただと思いながら使っていました。だれが大切なものをわざわざ落とすか、髪の毛を自分で伸ばすことができる気か、というわけです。親戚の江戸っ子の年寄りが、なんだい、あいつはいい年して、頭はげらかして、などと言って怒るのを聞いて吹きだすくせに、自分では、このラジオはもういかれちゃってるな、などと言っているのも、疚(やま)しい気がしました。日本にはいたる所に変な言いかたがあって、避けられないという想を捨てきれませんでした。 しかし、それもヨーロッパ流の文法観に呪縛されているせいではないのか、こんなことで日本語を使いこなすことができるだろうか、と反省したのです。

震える人間

静岡市の建築家の協会が、これからの都市像を探求するパネル・ディスカッションを主催したことがあって、講師の一人として呼ばれました。舌足らずなことしか言えなくて、登壇したこと自体に問題があったと思わざるを得ませんでしたが、私にそう思わせたのは、隣に坐ったパネラーの建築家のせいでもあったのです。彼は、実に適切な指摘をし、筋道たてて語りました。生活と行動の場としての都市から始めて、住民と来訪者の情緒まで思いやった内容でしたので、私は彼に圧倒されてしまったのです。 しかし、彼に親近感も抱きました。メモを持つ彼の手がわなわなと震えていたからです。顔も連動して震えていました。それで、この人も私のように振顫症(しんせんしょう)らしい、同族ではないか、と思えたのです。 案の定、討論のあとの小宴会で、私に酒を注いでくれた彼の、その手の中の徳利はかなり激しく揺れたのです。受けるさがづきも同様でしたから、たがいに相手に合わせようとする意に反して、両者の動きはチグハグになり、酒はいたずらに容器の外にこぼれる仕儀となったのです。彼の箸が掴みそこねた板わさが、バウンドして卓上を転がったりもしました。

以上のような事態が、私にはむしろうれしかったのです。こんなに震える人も、あんなに明晰な理性の持主であり得ると知ったからです。頼もしい彼が、一時的にしろこちらの憂鬱を解消してくれました。 やはり不安に怯えているのです。わが身のこの震えの行く手には何が待っているのでしょうか。たとえば、私は下手な揮毫をする癖があるのですが、近頃ますます字の形をつけにくくなって、嘆いています。あらぬ方向に筆が走るので、まるで舟の上の書道だ、と呟きたくなるのです。 過日は、遊びに来た友達が、応接間にたまたま投げ出してあった色紙を手にとって、遺憾の作を眺め、君の字は最近奔放になったね、と言ってくれましたから、そう信じようと努めました。しかしそれも、束の間のうれしがらせというのみです。なぜなら、書き手は奔放どころか、恰好を整えようとしておずおずと筆を運んでいるのですから….。 また私には、墨絵のようなものを試みる癖もあるのですが、岸辺の葦や杭を描いては、水に映る影がいかにもゆらいでいるようで以前よりもうまくなった、と無理に自分に言い聞かせたりもします。そして大袈裟に、この震えは、自分はこうしたいという意識を超えて起るものだから、意識下の自然のリズムが跳び出すのではないか、そうだとすれば、気にすることなく、むしろ活用すべく心懸けたらいかがか、と勝手な理屈を考えたりします。 更に、おそらくは負け惜しみに由来する妙な告白をしますと、カラオケで演歌を歌う時、小節の回しかたにこの症状が応用できる気がするのです。聞く人の迷惑もかえり見ず、最近は振顫症のおかげで、遥かかなたに立つ名歌手三橋美智也さんとか美空ひばりさんに一歩接近できたと考えることもあります。

ペースが乱れそう

散歩の途中に、百五十メー卜ルほどまっすぐな、淋しい道があります。そこを歩いると、向こうから知人が来ました。親しい人なら、速足に歩み寄って立話でもするところですが、挨拶で済ますほどの相手でしたので、笑いをこしらえてお辞儀をしました。そして頭をあげますと、双方の距離はまだ七、八十メートルあるのです。五メートルほど行ってからまたお辞儀をしました。こうしてすれ違うまでに、たがいに七、八回同じお辞儀を繰り返さなければなりませんでした。 二人きりの道でしばらく向かい合って歩いているのは、具合が悪いのです。それに、相手はともかく、私の歩みは至極おそいから、間がもたないのです。小さなことであっても、この種のことは苦手です。 そして更に、私が一番困っているのはアベックなのです。とはいえ、二人連れに対して他意を抱いているわけではありません。少しは遠慮しろ、などと言う気は毛頭ありません。もの影からもの影へと、牛歩で回っていく私が、勝手にこだわっているだけのことですが・・・・。

近所に丘の連なりがあって、その谷間の一本道を行くことがあります。すると忍んで会っている二人に出くわしてしまうことがあるのです。いわゆる閉鎖空間に三人きりになり、しかも一人は余分なのです。咎められているような気がして、そそくさと歩を運んで、速く立ち去りたくなるのですが、そこまで気兼ねする必要はない、ここは昔から自分の散歩の領分なのだから・・・・、などと気持を立て直して、牛歩を続けることにしています。 この辺に小型の乗用車が停めてあって、かたわらに肩を寄せ合って話し合っていた二人がいたこともありました。突然現れた私をチラッと見ると、若者のほうが車の中から野球のバットを抜き出して素振りを始めました。いかにも練習しているような歯切れのいい動作です。しかし、私には読めました。この谷間ではないにしても、少くもこの地方には、アペックを襲う不とどき者がいて、暴力と傷害の記事が新聞に載っていたこともあったのです。警戒のためのデモンストレーションに違いありませ。 この時にも勿論、私は速足でその場を外したかったのですが、目的は散歩にある、自主性を失ってはならない、と自らに言い聞かせたのです。十五年も前のことです。 過日は薄闇の坂道を歩いていて、直下でする女の声を聞きました。駄目よもう、あんなことをしたら。わたし痛かったじゃないの。これからやめてね、あんなふうにするの。 それを耳にして私の足は止まってしまいました。なぜなら、足の下に、その声は私と平行して移動していたからです。道はV字型になっていて、やがて声の主と自分は出会わなければなりません。しかし、矢張り足取りはコンスタントでなければならない、と自分に言い聞かせて進んだのです。 やがてすれ違って行ったのは、ダックスフントを連れた中年の女性でしたから、今やわが身にはアペック妄想が根づいてしまった、と呟いて苦笑しました。

舟人の情

南フランスのローヌ河口は、人影もまぱらな低地帯です。砂洲の中へまぎれこんでしまうと、何時間歩いても足踏みをしているかのようで、同じ無人の眺めに取り囲まれていますから、頭上の鴎が人なつっこく、なつかしく感じられるほどです。私はシャルル・トレネ作の〈海(ラ・メール)〉を口づさみながら(しかし自分の位置に不安を感じながら)、さすらいました。そして砂丘の対岸に水田が展けているのを見たのです。そこには小さな集落もありましたから、ソーセージと辛子をはさんだフランス・パン、それとビールぐらいはあるだろうと思い、あこがれました。しかし自分のいる所とその集落の間にはかなり広い運河が青く這っていて、どうしたら越えることができるのか・・・・。じりじりして歩いていますと、渡し舟がこちらの岸に泊っているのが見えました。ホッとしたのも束の間、生憎なことに、船員が鉄の杭からともづなを解いてるのです。このままでは舟は行ってしまう。そうしたら、ニ、三時間は待たされるに違いない。私はほとんど血まなこになって、砂丘の尾根を駆けました。一旦桟橋を離れた舟が待っていてくれたのです。走りこんできた日本人を、船員が桟橋にいて、両手を拡げて迎え容れてくれました。時刻表などにこだわることなく、お客の数を見たり、その都合に合わせたりして、運行している舟かもしれません。きっとそうなのでしょう。少くもわが国では、今はもうなくなってしまった昔の渡し舟や馬車の在りかたが、ここには残っていると感じつつ、感謝しました。

現在も私は時刻表を嫌っています。しかし、もしそれをいい加減にすれば、大多数のお客が困ってしまうことは、言うまでもありません。乗物は時間に関して情無用でなければなりませんが、とはいっても、情をかけられてありがたいと感じた経験を持っている人もいると思います。 実は、時間をゆるがせにしないはずの船を、十五分間待たせてしまったことがあるのです。それは東洋航路に就航している一万数千トンのフランスの客船でした。香港の九龍桟橋に碇泊している船の中でも、きわ立った白い一隻でした。そのタラップに向かって、私は息せききって駆けたのです。街で遊びほうけていて、帰船がおそくなってしまったからです。乗客係の主任がタラツプの中途まで降りて、こちらをジッと見ていましたが、遅刻した日本人の姿を認めると、駆けおりて、埠頭を走ってきました。そして彼と私は肩を組んで船に登りました。すぐにタラップが釣りあげられ、岸との間に水が開き、やがて吃水を後方に波が流れていました。あの時の眺めは、私にとって痛切とも言えるほどです。目の奥から消えることはないでしょう。船には何百人も乗っていたのですから・・・・。苦情を言われて当然です。しかし、だれも咎めはしませんでした。とり分け、乗客係の主任の思いやりは身にしみました。その後、食堂で会った時にも小川さん、今何時でしょうか、と聞きますので、私が腕時計を見て現地時間を言いますと、その通りです、あなたの時計は今日は正確です、と言って、素速くウインクしたのです。

熊本空港の午後

天草五橋を次々と渡り、熊本空港へ向ったことがありました。東京へ飛ぼうと思っていたのです。ところが、途次の風景に見とれていすぎたせいで、予定の便に間にあいそうもなくなってしまいました。タクシーの運転手さんは事情を聞いて、自信はないがと言いながらも、疾走してくれました。しかし、車が空港の建物へ近づいているうちに、そこからはがれるように、お目あての飛行機が浮きあがってしまったのです。目標を失って、むなしくそこへ走りこんでいきながら、突進は空を切った、などとしゃれにもならないせりふを呟きました。 とにかく自棄酒を飲もうと思って、構内の寿司屋へ入ってみますと、かなり慰めを得ることができました。遅れてしまったとこぼすのを聞いて、主人が、残念でしたな、それでは、ごゆっくり、と応じたからです。その言い方もあって、悪くない居心地だと直感しました。鮨の味も悪くなかったのです。私の味覚は鈍くて、大ざっぱに東京のシャリと静岡のネタはうまいと感じているくらいなものですが、その双方を兼ねそなえているように思えました。

次の便までは碓か五時間以上ありました。ここに居続けたい、と主人に言いました。すると彼は、どうぞそうしてください。テレピも見たいのがあったら言ってください、と新聞をとってくれたのです。忙しい空港で、実にのんびりできました。こんな機会は滅多にない、と思えました。居据ってしまった恰好で、入れかわり立ちかわりする客を見ていますと、会社員らしい中年の男が三人来ました。東京の人たちだったのかもしれません。物静かな会話のアクセントがそんな具合でした。並んで坐り、髪が半ば白い真中の一人がしきりと礼を言っていましたから、あとの二人はこの人を送りに来たように思えました。それだけことですが、この三人が--特に真中の人が私の記憶に残ってしまったのです。 それは別の理由によるのかもしれません。というのは、この真中の人を送りにきた清楚な女性がいたからです。彼女は寿司屋へは入ってきませんでした。建物の出入口のかたわらに控えていたのです。だれも目を向けない片隅にいたから、かえって私はハッとしてそっちを見てしまったのに違いありません。きちんと着物を着こなして、しかもほとんど動かないのです。特に爪先立った感じに揃えた足が、いわば、その美しいたたずまいのポイントのように感じられました。この人は自分にふさわしい姿勢で、ふさわしい場所を占めている、と私は感じました。 相手に対して遠すぎると思わざるを得ない距離をおいているのです。しかし、いつも彼を見つめていました。それが解って、私は自分が無礼な人間のように思いました。ひそかに相手の男性に目を注ぎ続けている女性を、それとなく観察していたからです。これが小説家か・・・・・・、と私は自嘲しました。 彼と私は前後してゲートを入ったのですが、その時彼女は手を帯のあたりに上げて、微かに振りました。別れを拒むような仕草でした。私の目はこの瞬間にも人の隠そうとする気持を盗んだのです。

「実弾」の力

ちまたに宣伝カーが行き来するようになると、喫茶店でも選挙の下馬評が聞かれます。第三者としての見通しもあれば、時には作戦を考えているおもむきの話もあります。中年の男が二人でやりとりをしていたことがありました。一人が、自分が応援している某侯補は某地区への切りこみが今ひとつだ、と言いますと、もう一人が、どうだい、実弾を射っちゃあ、と応じていました。銭形平次の鋭い投げ銭を思わせるな、と笑ってなどいられません。聞いていて私は、おやおや、と呟きました。勿論褒められた言い分ではありません。 しかし、ーつの表現として受けとれば、ここには興味深い何かがある、とも思ったのです。お金には弾丸が肉に喰いこんでくるような作用があるからこそ、こう表現されるのだろう、と自分をいささかヤボに感じつつも、私は考えて行ったのでず。 連想したのはエリアス・カネッティのお金に対する感想でした。この作家は〈マラケッシュの声〉の中で次のようなことを書いています。

モロッコで作家は貧しい盲目の老人に出会います。彼がおいしそうに、ひたすら何かを噛んでいるのを見て、最初それは一コのオレンジだろうと想像しました。しかし、違いました。一コの硬貨だったのです。通行人からそれを貰うたひに必ず口に含み、じっくりと享楽するのです。その証拠として、お金をはき出す時、こんこんと湧く唾が掌を濡らすというのです。 カネッティが感じたのは、このようにして老人は、(黙ってはいるけれど)相手を祝福している、こんなに私を喜ばせてくれました、あなたは必す天国へ行きますよ、と言っているということなのです。作家はその老人の感謝の大きさに感動してしまい、特別な修業を積まなければこうは行かない(多量の唾を湧かせることはできない)と思うほどでした。 いささか不気味な場景です。しかし私が同じモロッコで経験したのは、一見陽気な、無邪気ともいえる場景だったのを思い出します。カサプランカのキャパレーの、タノル張りのステージで五、六人の歌姫が声を張りあげて、えんえんと唱っていたのです。すると客は、一人また一人と、お札を手にして出て行き、お目あての歌姫に捧げるのです。受けとって彼女は美しい縫い取りのしてある帯に挟みます。こうして彼女たちは、次第にお札に(いわば)包まれて行くのです。中でも幸せな娘は、襟元や帯では足りなくて、汗に濡れた顔にまで数枚のお札を貼りつけていました。 わが国でなら、客は舞台におひねりを投げ、旅の役者は丁寧にお辞儀をして袂にいれます。その仕草からもお宝の感じですが、モロッコのあけすけな仕方ですと、いかにも現ナマてす。なまなましいのはそれだけではなく、持てる娘がますます与えられて豊かになって行くのを、負けじと迫いかける娘がいて、歌声はいつ果てるともなくせり上がって行くのです。痛々しく、刺激的で、きらびやかな争いの仕掛人はお札だというべきでしょう。

聞いてしまう

かなり過激な性描写を含んだ北欧の映画を見たことがありました。夜行列車の乗客同士のセックスが撮られていました。それにしても、見たくて見たわけでもありません。深夜のテレピに目をさらしていたら、たまたま映し出されたといったところでした。 なぜその場面を今でも記憶しているかといいますと、それから数日して、夜行の新幹線の車中で、ある経験をしたせいです。ガランと空いている〈こだま〉の車輌で、トイレの中からかすかに人声が聞えてきたのです。ドアを見ると赤く使用中の印が出ています。それで、前記の映画を連想してしまいました。やはりトイレ内のシーンがあったからです。 それとなく成り行きをうかがってしまいました。しかし、やがてそのトイレから出てきたのは携帯用の電話を手にした青年でしたから、ホッとしつつも、自分のダサい気の回しかたにあきれた次第です。 同時にこの青年に対して好感を抱きました。人影もまばらな車内でしたから、トイレも混む心配はありませんし、彼は適切な場所で、遠慮勝ちに電話していたのです。このような人はまれです。

私が好んで<こだま>に乗るのは空いているからなのです。職業がら、著想を待ったり、ストーリーの展開を考えたりしたいのですが、それにはガランとした車中が都合がいいのです。ポカンとしていたければ、していられます。ところが最近になって、わが愛するこの環境に天敵が現れました。とても空いている車内だから気兼ねも少いのでしょう、ほとんどの人が席にいるまま携帯電話をかけるのです。 <天敵>とは不当だと言う向きもあるでしょう。人声を咎める気か、と言うかもしれません。聞かなければいいのにお前さんが聞いているだけだ、立ち聞きするとはかえって失礼ではないか、と言われそうてす。これが乗客同士の会話なら、ほとんどそんな気は起らないのですから…。しかし私は、やはり聞いてしまうのです。過日も下りの〈こだま〉で、岐阜羽島のあたりで電話していた人は、書類を調べて、一つの事実を確認してほしいと相手に頼んでいました。すると、米原を過ぎたところで、べルが鳴り、返事が入りました。彼はうれしそうに、そういうことか、よく解った、ご苦労さん、ありがとう、と言っていました。窓外を流れる風景のかたわらで、仕事を進めているのです。これも現代の仕方で、きっと新鮮だろうな、と私は想像しました。 またある人が、ここだけの話だがな、あいつはおかしいよ、トンチンカンなんだ、と電話しているのを耳にして、外聞をはばかる話にこの私が立ち合っている、と感じたこともありました。勿論話手はその件に関してまわりを気にする必要もなく、声をひそめることもなく喋っていたのです。東京の電車の中で、君にはしばらく会わなかったな、会いたいよ、今度どこそこで会おうじゃないか、都合つけてくれよ、と電話している人があったそうですが、相手も携帯電話で受けていて、しかも同じ車輌の同し側の座席にいたということです。

小説本が伴侶

最近文学の読み手がへった。それにはテレビ、ビデオの影響が大きい、という声が聞かれます。そうだとすると、失われつつあるものは何でしょうか。たしかに映像は直接で、具体的によく解る利点もあるのですが、鑑賞する側がイメージをこしらえる余地が少いので、想像がふくらまないうらみがあります。でずから、文学の読書の喜びを知るものにとっては、映像はもの足らないのてす。 しかし、いわゆるテレピっ子はその種の喜びがあることをほとんど知りませんし、人ごととはいえなくて、私もそれを忘れかけているような気がします。 私の祖母の妹は、若死にした夫が文学者だったせいもあるのか、小説本が何よりも好きでした。眼鏡をかけてよく読んでいましたし、目が疲れるのか、寝がけには枕元でお手伝いさんに読んでもらっていました。彼女よりずっと若いお手伝いさんもまた、その時間を楽しみにしているようでした。二人のどちらかが読書の途中に眠ったことなどありません。こわいね、どうなるんだろうね、と合の手を入れながら、ますます熱中して行く様子でした。私もそのかたわらに寝ころんで聞いたこともありますが、彼女たちのように、このやり方を毎夜の習慣としたいと思うほどではありませんでした。それでも、大下宇陀児や甲賀三郎や森下雨村の殺人の話を、身の毛のよだつ思いで聞いた記憶は、断片的ながら、今も鮮明です。

長い長い続きものは、いわゆる家庭小説、悲恋もののたぐいです。何箇月も読みつがれたのではないでしょうか。夜も更けると、そこまでにしておこうか、茶の間にお煎餅があるから食ぺて、寝てちょうだい、などと彼女は読み手をねぎらっていました。 彼女のかたみとなった小説本が、今も本箱にあります。柳川春葉〈生さぬ仲〉、菊池幽芳〈己が罪〉、渡邊霞亨〈渦巻〉、泉鏡花〈婦系図〉などです。いづれもなかなかの装丁の本です。 〈源氏物語〉などもこのように読みつがれたのてはないか、と想像すると楽しくなります。きっとそうなのでしょう。教壇で講義されるよりも、うす暗い灯りのもとで、人知れず味われるのがふさわしい本なのでしょう。小説はやはり、女性の寝室で花咲いたのではないでしようか。祖母の妹は長い間ひとり身を通し、一人っ子の子育ても早く終り、小金を持っていたのかもしれません、優雅ともいえる仕方で、こんな考えを少年だった私に植えつけたのです。 作家の石和鷹さんのお母さんも彼女のような人だったようです。それどころか、彼女よりも怖ろしい読み手だったようです。この方もしょっちゅう小説本を手にしていたといいますが、八十歳になってもその習慣はやむことがなかったのだそうです。そんなある日、母親が読みふけっていた一冊を息子に示し、これは割り合いにおもしろいね、と感想をもらしたので、石和さんがその本を手にとって見ますと、ドストエフスキーの〈悪霊〉だったというのです。

ロシアのユーモア

旧レニングラード(現サンクトペテルブルグ)でこんなことがありました。ソビエト作家同盟の面々が、来訪した日本の作家たちのために宴をもよおしてくれた時のことてす。 動物愛護協会の会長さんが挨拶に立ち、自分の仕事や考えかたについてスピーチをしていますと、そのわきにいた一人が、今夜も彼は料理を食べることができないだろう、愛する鴨が殺され、皿に乗せられて出てくるのだから、と言うのです。 また一人の小説家は、心暖まる歓迎の辞を述べました。曰く。私は昨日シベリアの旅から戻ってきたところです。サハリンヘも行きました。更に足を伸ばして、北海道へも行きたかった。是非日本人と会いたかったからです。しかし、日本へ渡る許可を得ることができませんでした。仕方なくダリニャヤ(サハリン島の南端)ヘ行って、対岸を遠望しただけでした。ところで失意の私がこのレニングラードへ戻ってきますと、なんだ、日本人のほうが先回りして、こっちへ来てくれているではありませんか。みなさんは、私の愛が呼び寄せたのではないでしょうか。 このようなユーモアにあちこちで出合って、筆者が思ったのは、ロシア人には即興のおもしろさを競い合う習慣があるのではないか、ということでした。ことに宴会では、衣服の趣味の良さとかマナーの良さにもまして、ユーモアは売りものなのではないか、と感じられました。

彼らの言う皮肉もまた、辛辣でしかもおもしろみを含んでいます。 革命記念日の翌朝の新聞には、クレムリンのテラスにブレジネフを始め大物たちが並んでいる写真が載っていたのですが、それを見ながら、キエフの詩人は、かたわらの私にはばからず言いました。彼らは高いところへ登っています。しかし登らないほうがいい、登ると落される危険がありますから・・・・。 モスクワ大学日本語科の女性の教授は、ロシア・ホテルヘ入ってくるといきなり、流暢な日本語で言いました。でかいホテルですね、驚いたでしょう、でかいの上にバカがつきますね。 この(言うまでもなく官営の)ホテルは幅百メートル、奥行き何十メートルかの超高層で、赤の広場に臨んで誇らしげにそびえているのです。 彼女のこの一言から、冗談のやりとりが始まりました。食堂へ入って私が、きれいなホールですね、と感心しますと、日本語ではバカきれいと言いますか、と彼女が訊ねました。それは言いません、と私は応えました。彼女は、どんな形容詞にバカをつけるのでしょう、と訊ねますから、たとえば、バカまじめ、などと言います、同じ意味で、クソまじめとも言います、と私は返答しました。やがてボルシチが出てくると、私は一匙飲んで、うまいと褒めました。すると彼女は、バカうまいとも言いますか、とまた訊くのです。 そこは微妙です、たとえば男の子なんかが仲間うちでそう言ったりしますが……。なるほど、と日本語に堪能な彼女は頷き、それにしても、さっきあなたが〈まじめ〉につけたもう一つの言葉は、いくら男の子だって、この場合言わないでしょうね、とますますいたずらっぽく笑うのです。

二人が一人になる

長老とよぶべきある作家が、あるパーティーて編集者の小宮さんになに気なく話しかけ、次のように言ったそうです。 あなごの食べかただけど、君、あれをあぶってほしいんだ。はしばしがちょっと焦げるくらいにね。そして、たれを塗ってあぶり、二、三回繰りかえしたほうがいい。普通の醤油を塗るのもいいよ。僕はそっちのほうが好きだけどね。醤油で仕上げてわさびを添えて食べると、それはうまいよ。 小宮さんは聞いていて狐につままれたような気がしたそうです。実は、その作家は相手を間違えたのです。彼があなごの折りを贈ったのは公立大学の教授の原さんだったのです。やがて混同に気づいた作家は、恐縮して、済まなかった、人違いしてしまって、これも縁だろうから、君にもあなごを送るよ、食べてくれたまえ、と言ったとのことです。 この作家が時にこの種の失敗をすることは、私も知っています。似ている二人を同一視して、しかも、思いこむとなかなか見分けがつかなくなってしまうのです。頻繁に会う相手なら、それも解消されるでしょうが、時々会う程度ですと、その都度分らなくなるようです。彼は文字に関してはとても強く、文章も老来滋味を増したと評価されていますが、人の容貌を把握する力は弱いといえそうです。

ひと事ではありません、私は人の名前を把握する力が弱いのです。しかし負け惜しみを言うと、容貌はよく弁別します。ですから、たまたま知人に会った時など、名前は出てこないけれど、彼がどこのだれかはよく分っているんだ、と妙なコジツケを内心呟いたりします。 私の実感では、その人の本来弱い分野は、ある年齢(五十五歳くらいか)を越えると、次第に弱くなって行くようです。おおむね、その傾向に対して無駄な抵抗はしないほうがいいといった心境です。ところが、本来強い(と思っている)分野に関しては更に自信のようなものが湧いてきます。まだ開拓可能だと思ったりするのです。これが生きて行く力になるのでしょう。 また、年をとるにつれて気休めも考え出します。私の数の観念とその記憶はまったくなっていないのですが、過日鴎外の研究者から、この名作家も数には弱くて、その点を彼の校閲者が指摘していると聞いてホッとしたのです。勿論文章の中の〈数〉をなおざりにしてもいいと思ったわけではありませんが、なんとなく、悩まなくたっていいんだ、という気持にはなることができます。 ところて、長老と称ぷべき作家の人違いについては、後日?があります。彼は今度は大学教授の原さんと会い、君、この間は失礼した。突然あなごの焼きかたなんか聞かされてびっくりしたろう。近く、約束のあなごを送るからね。勘弁してくれたまえ、と言ったというのです。 原さんの返事はこうでした。 この間頂戴したあなご、大変おいしかったです。家内もあなごには目がないもんですから、小踊りして喜びました。また送っていただけるんですか。期待してよろしいんですか。うれしいなあ。 作家はまた人違いしたことに気づき、原さんにも、あなごをもう一度プレゼントしたそうです。

駆け降り、駆け込み

名古屋駅で下りの〈ひかり〉に乗った時のことです。デッキへ入ると、叫んでいる母親と出会いました。発車間ぎわになって、急いで降りようとしていたのです。うたた寝でもしていて、乗り過ごしそうになったのかもしれません。彼女には、六、七歳をかしらに三人の子供がまといつき、戸惑っていました。特に一番下の男の子はキョトンとしていましたから、はやくしなさい、だめよ、ぐずぐずしていちゃあ、と彼女は追い立てていたのです。辛うじて子供たちは三人ともホームへ降りましたが、しかし、その直後ドアが閉ってしまいました。ドアをへだてて、車内の母親を見つめていた幼い頼りなげな表情は、私の眼にも、今も残っています。当然母親は動転しました。いいね、そこを動いちゃあいけないよ、と言いきかせていましたが、彼らに聞えたかどうか…。 列車は京都駅へ向かって走りはじめました。車掌を呼びましょう、と私は言い、後方へ速足で歩き、彼女は前方へ歩きました。間もなく私が車掌を見つけて彼女を引き合わせましたので、敏速に手配をしてくれましたが、それでも彼女は不安そうで、肩を落し、血の気を失った頬へ掌を当てて、しきりに髪をかきあげていました。しかも、空席はあったのに京都へ着くまでずっとデッキに立ったきりでした。深いショックを受けると、人と顔を合わせるのを避けたくなることがあります。心配し反省し、面目なくて、一人でいたかったのでしょう。

保証はあったのです。それにしても人間には、突然一人になってしまったと感じる瞬間があり、たとえその気持から回復したとしても、人生には罠があり、自分は無防備だという自覚は忘れられないだろう、などと私は深刻すぎる考えにひたったのです。終戦後間もないころ、郷里の東海道線の小駅で下りの列車を待っていますと、その待合室に一升瓶の首を無造作に掴んだ男が風のように駈け込んできたことがあります。町の外科医で、私も手を怪我して彼の治療を受けたことがありましたから、あ、先生だ、と注目したのです。すでに上りの列車はホームに着いていました。彼はそれに乗ろうとして、ブリッジを越えないで、線路に飛ひおり、当の列車の中ごろのデッキへよじ登ろうとしました。手すりを握り、片腕の懸垂でようよう体を引きあげました。しかし、間に合ってよかったな、と私が思った途端に、一升瓶はステップにぶつかって割れてしまったのです。勿体なくも、当時は滅多に嗅ぐことができなかった清酒の匂いを砕石にしみこませたまま、列車は行ってしまいました。 先生はその虎の子の瓶を掴んて、勢いづいて、共に汲みかわす友達を訪ねようとしていたに違いない、と私は感じました。推測は当らずといえども遠からずだったでしょう。それなのに、彼は瓶の首の部分だけを持って、列車に運ばれて行きました。その瞬間の彼の淋しい、うつろなおも持ちを、少年だった私は、おかしいと眺めはしませんでした。まるでわがことのように無念に感じたのです。

五所平之助監督の思い出

ジョルジュ・サドル著、丸尾定訳《世界映画史》は記念碑的な大冊です。取りあげた劇映画の数はざっと二千九百本もあり、しかも、作品評だけでなく、制作の動機とか発表後の反響、時代背景にまでくわしく目を配っているのです。映画史の決定版の観があります。最近この本を読み進めて行って、私が特にうれしかったのは、わが五所平之助が高く評価されていたことでした。フランス人の意見をまつまでもなく、私も五所は優れた監督だと認めてはいましたが、それにしても、このような大きな舞台で彼に光が当てられていたことを知って、わが意を得たのです。彼の〈マダムと女房〉〈生きとし生けるもの〉〈人生のお荷物〉〈木石〉〈今ひとたびの〉〈わかれ雲〉〈煙突の見える場所〉が論じられていました。 これらの作品の何本かは私も見て、記憶にとどめています。しかし、実はそれだけでなく、五所さん自身に直接これらについて質問したり、更に二人で意見をやりとりするチャンスに私は恵まれたのです。というのは、晩年の彼は三島市に住んでいて、やはり静岡県に住む私と、時々静岡市で一緒になることがあったからです。彼は俳句に打ちこんでいましたので、その道の仲間と飲み屋にいることが多く、そこによく行く私と、出会えば必ずうちとけて話す関係になったのです。

細身細おもてで、背広の似合う老人でした。微笑が特徴の穏和そのものの人でしたが、時に劇しさの片鱗を現わすこともありました。〈煙突の見える場所〉をテレビて放映したいと申しこまれたけれど、一部カットさせてくれと言うから、冗談じゃない、そんなことをさせやあしない、と拒ってやったよ、と言っていたこともありました。 映画が話題になっているうちは、私はかなりトンチンカンな学生のおもむきでしたし、彼は勿論ベテラン教師のおもむきでした。しかしやがて俳句が話題になってくると、そうでもなさそうでした。この句について僕はこう思うけれど、これでよろしいか、君はとう思いますか、というように五所さんの口調は変りましたので、私も精一杯自分の意見を言ったものです。しかし俳句談義も三、四回続きますと、私はやはり気圧され始めたのです。彼の素養もなかなかのものでしたし、特にその意気ごみが相手をたじたじとさせるほどだったからです。彼の第一の情熱は映画に向けられた、そして第二のそれは俳句に注がれている、両者の強さは甲乙つけがたいのではないか、と私は感じました。 彼は最初から、芭蕉の旅の道筋をつぶさにたどりたいと洩らしていましたが、他界する少し前には、早くその案を実行に移したい、と言いだしました。一人で行きたいといった感じでそう語ってから、僕は〈野ざらしを心に風の染む身かな〉という句に共鳴するね、と彼がつけ加えた時、私はドキッとしました。彼が老境をかこっているように思ってしまったからです。しかし、そんなことを言おうとしたのではなかったのです。彼は自分のことなど言おうとしたのではなく、まるで若者のようにひたむきに芭蕉を尊敬し、今やその句境が解った、と言おうとしていたのです。

宗教の普遍性

<私は感嘆する。あらゆる人々が等しく、神(イエス・キリスト)を食べるのだから>という意味の古いラテン語の歌があります。言うまでもなく、最後の晩餐においてイエスがパンを手にして、これは私の体だ、食べるように。それから、葡萄酒の杯をささげて、これは私の血だ、飲むように、と弟子たちに言ったと書かれている聖書にもとづいて、このように今も歌われているのです。それにしても、この神秘的な教義は批難されました。イエスの信者たちは人肉嗜好だ、とさえ言われたそうです。キリスト教迫害の根にはこの種の世間一般の違和感があったのです。 それでは、イエスの信者たちはどのように迫害に対処したかというと、この点に関しても、彼らはイエスの教えに従いました。 剣を持つ者は剣によって滅びる。私が神に願えば、神は十二軍団以上の天の使いを、すぐにでも送ってくださるだろう。だが私は、そのようなことを願いはしない。 自分はこの教えにすべてをたくす、自分の考えの中には、実力行使などはない、と言っているのです。そして、古代の信者たちは、この命令に忠実だったのです。(後世の教会がこれをはなはだしくないがしろにしたことは否めませんが….)。 イエスは弟子たちに次のようにも言っています。

私はこの世に根拠をおく者ではない。そしてあなたたちも神と私に根拠をおいている。神と私の間にあるのは愛なのだから、そのように、あなたたちも愛し合わなければならない。必要と思ったら、友のために命も捨てなさい。そのような愛があることを見て、世間の人は、あなたたちが私の弟子であると知るだろう。 一読して解るように、これも少数の信者たちに対して言われた言葉です。新約聖書全篇が、実は、教団としての少数者に向って、愛し合うようにという強い勧告なのです。イエスを中心とした教団は迫害にさらされていましたし、彼が十字架につけられた後も、さらされ続けました。劇烈な外圧を受けながら、危機感の中で、この際愛による一致が肝腎だ、それを失ってしまえば、瓦解しかないのだ、と説いているのです。ただ不思議にさえ思えるのは、グループの内部に向けて説いている教えが、広く外部に対してもそのまま通用することです。普遍性のある教えだったのです。 私は、今や世界の趨勢とさえいえるもろもろの新興宗教に言いたいのです。その中で説いている人も聞いている人も、自分たちの教義は普遍性をもつものかどうか再検討してみる必要がある、と。内部の連帯感を強めるためには、閉鎖的になって外部の敵を強調したほうが都合がいいことは言うまでもありません。しかし、怨恨や憎悪を共有した自虐的な運命共同体の行手に光はありません。 同時に迫害とは何か、とも考えてみたいのです。冒頭に記したように、カルト(その宗教固有の祭儀)に対して抱く違和感は、迫害の契機になり得ます。それが昂じて、自分たち(世間一般)の言分は正しく、相手は降伏すべきだという集団心理になったりします。それが世間の正体だったとすれば、新興宗教に入信する者は少くもその動機において、正しいのです。

木下恵介監督の思い出

長谷川さんは旧制中学の親しい級友でした。大学に入ってから、彼と私は木下恵介監督<二十四の瞳>を一緒に見て感激し、感想を熱っぽく語り合ったことがあります。それから、同じ監督が貧しい戦後の家族を描いた<結婚>を再上映の折りに見た時にも、二人ともひきこまれ、映画館を出てからもしばらくボーッとしていたものです。特に長谷川さんは目に涙を浮かべていました。彼は木下監督が好きでしたし、しかも、この映画には彼があこがれていた田中絹代が主演していたのです。他にも上原謙や東野英治郎が出演していて、ある家族の場合がキメこまかく、暖かく、悲しく、そして甘美に撮られていました。 長谷川さんは小学生のころ両親を失くし、長兄の家で育ちましたから、たとえ貧しくても、この映画にあるように家族揃って暮らす様子が、うらやましかったのです。そんな彼の満たされない願望に対して、木下監督は本当の家族の姿を示してくれたともいえるでしょう。

後に私はフランスで<野菊の如き君なりき>を見ましたが、その時客席で泣いているフランス人がいるのに気がついて、長谷川さんのことを思い出したことがあります。このような次第で、木下監督の映画は私にとっても、その上質な感傷が胸に訴えてくる作品だったのです。いつも、少年時代からのよき友長谷川さんとの縁で見てしまうのです。 やがて、東京大森に住んでいた時、この監督のスタッフの一人が私の下宿にやってきたことがあります。その人は私の知人の友人だったのです。今<喜びも悲しみも幾歳月>のロケーションをフランスの客船の上で始めようとしているけれど、にわか通訳をやってくれないだろうか、という申しこみだったのです。引き受けて、すぐに彼の車で横浜港へ行きました。そして、東洋航路のフランス船のプロムナードでライトを浴びている仲谷昇さんたちに立ち合いました。かなり大掛かりなロケでした。いく台かのカメラが船の中にも埠頭にも動いていました。後者は高い梯子の上に乗っていて、手すりの外から俳優を撮っているのです。それが終わると、私は監督と対面しました。緊張で震える声を抑えながら、挨拶したのです。興奮がようよう収まったのは、船長の招待でサロンで行われた小パーティーが始ってからでした。その間、私は終始監督のそばにいたのですが、彼がとても疲れた様子をしているのまで、貫禄のように思えたものです。 更に私は、縁あってこの監督と、彼の郷里の浜松市で会ったことがあります。五年前のことです。一緒に食事をしながら、彼はこう言いました。僕はね、小川さん、小説家って怖いんですよ。僕も映像にしようと思いながら文学を読むことは多いんです。でも、文章は映像にならない、と考えてしまうんです。それで便宜的に自分のやりかたで絵にすることもありますが、僕のこしらえたものを見て、小説家は一体どう思うかって考えると、なんだか怖いんです。 夢中になって、木下恵介の世界を見つめているだけです、と私は応えました。

初夏の喜びと悲しみ

五日前、縁側のすぐそばの植こみに、鳥の巣を見つけました。まだ確認はできませんでしたが、雉鳩のものではないかと思います。どこで探してきたのか、ビニールの紐を丹念に細く裂き、棕櫚(しゅろ)の毛とまぜて編むようにしてこしらえてあります。柔らかな壷のおもむきです。そのほかの暗い底に卵が一個産んであります。今さらながら、自然のいとなみの勤勉と優しさ、暖かさを感じて、大事にしなければ…. 、とそれを見守っている毎日です。 ハラハラしてもいるのです。というのは、わが家の縁の下には青大将の家族が住んでいるからです。こちらは何十年も、ひょっとすると百年以上も前から先住する一族で、おなじみですから、私は別に憎んではいませんが、いつ憎むべきことをしでかしてしまうかわかりません。むしろその危険は大きいのです。彼らの昔からのねぐらと、新しい白っぽい鳥の巣との間は、たった十数メートルしか離れていないのですから ….。

勿論人間に蛇を批難する資格はありませんが、それにしても、少年だった私は、燕の雛を呑みつつある青大将を見て、怒りと悲しみに胸をかきむしられたことがありましたから、心のどこかに、蛇など存在しないほうがいいと思う気持があるかもしれません。その時青大将は、まるで自分の別荘のように、燕の巣の中に居すわっていて、ギタギタした鎌首をもたげていました。わが家の軒場がその惨劇の舞台でした。親燕が戻ってきて、空からしきりに攻撃したのですが、蛇はゆうゆうとしかも機敏に反撃し、雛たちを呑み終り、梁をつたわって立ち去ったものでした。親燕にはうつろな巣だけが残りました。そして、当然私の胸には傷が残ったのです。 行きつけの喫茶店のマスターが、同じたぐいの思い出を語ったことがありました。彼もまた、出身地の大井川の河口の村で、蛇の横暴を見たと言うのです。 この川の幅はとても広く、河口のあたりでは優に千メートルはあります。しかし水量はさほどではなく、大部分は洲なのですが、そのあちこちに繁っている潅木の中にひばりの巣があったと言うのです。少年だったマスターは空の一ヵ所で羽ばたいている親ひばりを観察していて、巣のありかを知ったのだそうです。見当をつけた場所へ行ってみますと果して巣があったので、大喜びしました。しかし、そこに産んであったのは数コの卵で、まだかえっていなかったのです。マスターの目的は雛を家へ引きとって、餌づけをすることにありましたから、その日は手出しをしないで、立ち去りました。そして翌日も、胸をはずませて、自分だけが知っている巣を見にゆきました。数日通ったのです。しかし彼は、最後に、巣を覆ってとぐろを巻いている蛇を見てしまったのです。 マスターは繊細な人でしたから、自分が蛇に道を教えてしまった、生きもののにおいをその巣までつけてしまったのは自分だ、と心を痛めたとのことでした。 実は、今は亡きこの小鳥好きのマスターに、今度の新しい、白っぽい巣のことをまっ先に知らせたかったのです。夢中になったに違いありません。

遊女の手紙

旧制中学の恩師、藤井誠さんは今や九十歳になんなんとしています。 かつて少年だった私は、彼のマルチ教師ぶりに驚いたものでした。専門は生物学でしたが、数学もできましたし、オルガンやピアノも一応ひきこなしました。剣道も相当の腕前でした。古文書も大抵は読めたに違いありません。彼が素質に恵まれていたことは言うまでもありませんが、それに加えて、藩校の遺風も受けついでいたからこそでしょう。彼は武家の出でしたし、しかも当地のお城の藩校は全国でもかなりのレベルだったとのことです。おそらくは、それをなつかしく感じて、停年後の彼は、その藩校について、お城について、更にその所在地である駿州藤枝宿について研究を始めました。 最近、彼が書いた二冊の本、《藤枝宿白子町秘話》《藤枝宿上伝馬下伝馬》を熱中して通読し、私は今次のようなことを思っているのです。 ….江戸時代の飯盛女、つまり遊女の境涯のはかなさについてです。彼女たちの戸籍はもはや実家にはないのです。抱えの宿に移され、その家のお寺に登録されてしまうのです(よく知られているように、昔戸籍を扱ったのはお寺でした)。しかもその際、その女がキリシタンではないかと調べられたりしているのです。その上移動も制限されます。トレードされるにしても、東は三島宿、西は浜松の宿以遠はゆるされない。このようなことが御公儀の御法度だったのです。女権論者でなくても、思わず(時代をとび越えて)日本人であることが恥かしいと言いたくなるような事実です。

しかし、当の彼女たちのなまの声は別です。その中からは、やはりけなげで、胸を打つ人間の声も響いてきます。次のような手紙を藤井さんは発掘しています。 あまり、あまり、おんなつかしさゆえ、おもうにたえかね一筆申しあげまいらせ候。さて、お前さまには、せん月末より、はしかにて、おやすみ候えども、何事のうおなおりのよし、おめでたく存じあげまいらせ候。わたくしも、久しくはしかにて、くろういたし候えども、ようようととのい候ゆえ、わざわざ人つかわし候えば、その折には、おやすみなされ候とのこと、夜のつとめにも、気落ちするのみにて、お前さまのおん快気のみ、まつばかり、いつも、それのみたのしみに、くらし申しあげ候。どうぞおなおりなされ候ならば、すこしもはやく、おめにかかりたく、そればかりに候。その上にて、つもるおもい、しみじみはらしたく、おもいこがれ候。おさっしくだされ、はやくおよろしう遊ばし、つねのようになり、お運びくだされますこと、願いあげ、そればかりたのしみ、願いあげまいらせ候。お前さまのみ、ちからにおもいおり候。ふびんとさっし下され、たとえふつつかなわたくしでも、おみすてのう願いあげまいらせ候。まずは、それのみ。あらあら、かしこ、たきより。 ここにも巧まぬ手練手管がある、とからく考えたとしても、やはり真情を疑うことはできません。たしかに恋があることを、読者も思うでしょう。歴史的事実は遠くにあります。しかしこの手紙の中の<たきさん>は今も息づいています。

ああ高校生

すでにこの欄で触れたことですが、私は母校の高校とか、その近くの蓮華寺池のあたりを、毎日のように牛歩で散歩します。この池は周囲千五百メートルほどです。そんなおやじに関心を払う人など勿論いるはずもありません。しかし高校生は別のようです。ある日拙宅へ校内誌《群星》を届けにきた二人がありました。ためしのないことなので、なぜだろうと思いながらページを繰ると、次のような小ばなしが載っていました。題は<記録保持者>というのです。 蓮華寺池を最も速く回ったのは藤枝東高校サッカー部の中山雅史君です。この池を最も遅く回ったのは同高OBの小川国夫君です。 しかもご丁寧にも、そのページに紙片がはさんであって、読めと言わんばかりです。 校内誌《群星》は二度届けられました。二度目の号にも小ばなしが掲載されていて、やはりそのページには紙片がはさんでありました。次のような話でした。 生徒・小川さんアフリカ旅行について聞かせて下さい。 講師・アフリカの印象は、実に、あのうそのうでした。

<講師>とあるのは、その三月ほど前、私が母校で講演したからです。三年に一回、私は定例の講話をそこでやっているのですが、いつもうまく行かなくて、悔いては、それにもめげずに新しい話題をさがし、それも駄目で、また考え….、と繰り返しているのが実状なのです。それで、その時は、アフリカ旅行について話せば受けるのではないかと思い、試みたのですが、結果はやはり容赦のない短評を受け取ってしまった形になりました。 にもかかわらず、私は苦心を続けました。すると最近になって効果が現れたかのように思えたことがあったのです。前記の蓮華寺池のほとりを散歩していますと、追い抜いて行った中年の男性が、突然足を止めて向きなおり、こちらへ戻ってきたのです。そして、小川さんですね、と訊くのです。私が頷きますと、彼はこのように言いました。 私の息子は今年東高校へ入りました。そして先ごろ、あなたの話をうかがいました。本当にいいことを言ってくださる方だ、と感動しておりました。 私は照れてしまい、ありがとうございます。いいことなんか言えませんです。生徒さんの参考になればと思って、相つとめましたが、と言いました。 彼は会釈して立ち去りました。駆け足になって、見る間に遠ざかって行きました。その時になって私は考えたのです。その一年生が感動したのなら、自分の話のどこが良かったのか聞いておかなければならない、今後のために手がかりを得なければならない。 そう思って私は、すでに対岸を走っている彼を呼びとめました。彼は駆け戻ってきてくれましたから、私は肝腎の質問をしたのです。彼の応えはこうでした。あなたは話を始める時に、みなさんは勉強や運動で疲れているかもしれない。私の話を聞いていて、もし眠くなったら遠慮なく眠ってくれ、と言ったそうですな。学校の先生がたよりも思いやりがある、と息子は感動しておりました。 感動したのは、そのことだけだったと言うのです。

画家 春田美樹とのえにし

耳ざといせいか、過去に聞いた様々な音を覚えています。東京大森に住んでいたころ、一番容赦なく横暴だったのは、ガラスをびりびりいわせる飛行機の爆音でした。徹夜する私が床につく時間に襲ってくるのです。近くの羽田に離陸するのか着陸するか、しばらくは体を圧えつけられているようでした。これは嘆きと怒りのタネでした。 ところで、昼すぎに目醒める私の耳に、いつもひっそりと流れこんでくるのは、不思議な音でした。<ハーレム・ノクターン>をはじめとする、ストリップの観客にはおなじみの音楽でした。それにまじって、あでやかな若い女性の声もしていました。こんなわけで、私は、就寝に当たっては上から暴力に見舞われ、起床に当たっては下からオツな贈り物をもらうような毎日を送っていたのです。<下から>というのは、住んでいたのが丘の斜面で、音楽が湧くのは一段下の住宅だったからです。

やがて友人が遊びにきて、この下の住宅を見るともなく見ていて、なんだ春田美樹はここに住んでいるのか、と言いました。この友人は東京芸大の出身者でしたから、同校の先輩の春田さんの顔を知っていたのです。特に親しいといった様子ではありませんでしたし、学年も四、五年離れていたようですので、あるいは、春田さんは芸大仲間では名物だったのかもしれません。特異な仕事をしてもいたのです。当時数多かったストリップ劇場の頂点に立つ日劇ミュージックホールで、演出を担当していたのです。 それ以来私は春田さんを意識するようになりました。ダンディーでした。ラフでしかも凝っていましたから、私のもっさりした服装とは勿論かけはなれていましたが、それにしても、冴えない顔色だけは両者に通じるものがある、と感じました。彼の内蔵も衰弱しているのではないか、胃がやられているのでは….、と自分のことのように思いやったものです。その後三十五年たって、彼が当時を回想しているのを美術雑誌で読みましたが、次のようだったのです。 彼は旧帝国劇場で<モルガンお雪>に越路吹雪さんや森繁久弥さんたちと出演していて、やがて日劇ミュージックホールに所属することになり、深沢七郎さん、ジプシーローズさんたちと仲間になります。<当時、神風タレントといわれるぐらい忙しかったものですからね。….だから人と会ってコーヒーしか飲まない生活というか、もう体力的にも弱って胃をやられていたんです。….目が赤くなって….眼医者に行く時間が惜しくて、うちの運転手に、「眼医者の看護婦を騙して薬の名前を聞いてこい」と聞かせて、何十倍かの蒸留水で薄める薬を知らずに原液で打ったんですよ。> 結果は水晶体をやられ、両眼失明の危険にさらされます。ようよう片眼だけは助かることになるのですが、この失敗と重ったあばら骨七本を折る自動車事故に遭ったことが転機となって、彼は絵描きになろうと決意するのです。 従来の仕事が続けられなくなったからではありません。災厄に心をゆさぶられ、自分の本当の望みを切実に自覚したのです。それからの春田美樹の妥協のない画業については、知る人ぞ知る。特にスペイン・アンダルシアの風景画は、日本の絵の世界への稀な貢献といえるでしょう。

フランキー堺さんを偲ぶ

大阪芸術大学へ出講する教師の宿泊所は、天王寺都ホテルです。そのロビーで、私はある夜フランキー堺さんを見かけました。六年ほど前のことです。それからも、四、五回見かけました。いつも大きめの鞄を提げ、胸を張り闊達な足どりで入ってきてチェックインしていました。地味な様子で、人々にまぎれているといった感じでした。ただ私をハッとさせたのは、スクリーンやテレビでおなじみだった彼が、今や相当やつれていることだったのです。 そのうちに俳人の鈴木六林男さんが話したところによりますと、フランキーさんはもう十年も前から、芸大で講義しているベテラン教授で、しかも、かなり多い担当の時間をこなしているとのことでした。舞台や映画で殺人的に忙しいであろうに、どうしてそれが….、と不思議に思えました。その上、彼は俳優出身の北村英蔵教授とコンビを組んで、演劇の資料を収拾しているともいうのです。後に結実する<写楽>への構想がすでにあって、大学での研究はその準備の一環だったのではないでしょうか。

やがて私は、フランキーさんとホテルのレストランで話し合いました。一緒に食事を、ということだったのです。とはいっても、私は酒を飲み、つまみをつまむだけでしたが、彼は簡単ながら、ちゃんと食事をしました。そして、ぼくは酒を飲めないのです、腹を手術したもんですから、と言い、ワイシャツと肌着をたくし上げて、その腹を示したのです。肋骨のあたりから下腹まで正中線に傷痕がついていました。腹を断ち割ったというべきでしょう。その長い傷の向うから、こちらを見ていた彼の瞳が、今もつきまとうように、私には見えてくるのです。<情っ張り>の眼です。それも深いところにひそめた闘志が、そこにうかがえるといった感じなのです。 慶応大学の話も出ました。というのは、少し前私はこの大学が出したパンフレットを見たことがあり、そこに学外からの講師としてフランキー堺の名前が載っていたからです。たくさんお仕事をお受けになるんですね。そんなに受けて、怖くはありませんか、と臆病な私は訊きました。あそこは、ぼく、昔から好きだもんですから。勝手なことを喋らせてくれるでしょうからね。芝居となるとそうはいきません。だから大学で、溜まっているものを吐き出すんです。フランキーさんのこたえはこんな趣旨でした。積極的ですね、あくまで、と私は言いました。 精一杯がフランキーさんの身上でした。しかし、その故に、彼は健康をむしばまれたとは言えないでしょうか。 彼が戦後デビューしたころ、私にとって彼は別世界の人でした。リズム感の塊りでした。明るい上に明るく、動いてやまない突貫青年とでもいうべきでした。楽天的なアメリカの匂いを振りまいている、と見たこともあります。しばらくすると、彼の敏捷でしかも節度あるユーモアを、得がたいものと思いました。その時彼は極上のエンタテナーだったのです。そして、ついに私は、その域をもはるかに越えたフランキー堺と、大阪で出会うことができたのです。

河原の美しさ

大井川の蓬莱橋(ほうらいばし)へ行ってみました。明治十一年にできて、その後修理しつつも、元の姿を保っている稀な木造の橋です。千メートルの渡り廊下のおもむきです。半ばまで行きますと、東岸の自動車の音も消えて、静かでした。歩くと橋板が鳴り、たちどまると無音になるのです。梅雨どきの夕もやに包まれて、自分の墨絵の中にいるようでした。動くものはなにもないようでしたが、しばらく河原を見ていますと、灌木をかすかにゆすっている風が見えます。さらに目をこらすと、たまり水にはねる銀色の魚も見えてきます。 このような日の大井川には、だれもうっとりするでしょう。しかし、大かたのこの川の評判は、必ずしもかんばしくないようです。なんと趣きのない川だろう、と言う意味のセリフが、有吉佐和子さんの《華岡青洲の妻》にあったのも思い出します。幅千メートル余、長さ一万数千メートルにわたって、ほとんど砂利がむき出しの河原なのです。土地の有効利用を思う人々にとっては、いかんともしがたい、ひどい無駄として目に映るでしょう。

同じ否定的な見方は、遠い昔にもありました。この付近には、よく知られた<小夜の中山>がありますが、サヨはサイの言い変えだそうで、名称の意味は<賽の河原にほど近い山道>ということになる、と知人の民族学者に教えてもらいました。こう考えると、この山道を歩きながら<命なりけり>と歌った西行の真意も解るような気がします。鎌倉が栄える以前には、大井川は文化果つる所だったのでしょう。結界というのでしょうか、たとえば東国へ島流しされる罪人は、この涸れ川のほとりに来て、一段とわが身のはかなさを実感したのでしょう。 蓬莱橋を東から西へ渡ると、そのまま山道に続きます。小さな祠がポツンとあるばかりで、あたりに人家は一軒もありません。もともとこの橋は、山地にひろがる茶畑への往来のためにかけられたもので、いわば、農道の延長だったのです。だから百年以上も、ひっそりした橋であり続けたのです。今でも、二人だけで歩きたいアベックとか、時代劇映画のロケ班とか、私のような閑人の要望にこたえているだけです。 橋を渡って、河床へおりてみました。岸に近い渕には、ほの暗い木影に鷺たちが立っていて、真白な羽がきわ立っていました。彼らのひそかなたまり場のおもむきです。静まりかえっていて、夢の中の光景のようです。河原にははんの木、猫柳、さつきなどがところどころに繁っています。あざみとか、名も知らない草もまだらに生えています。それらの住み分けの様子も、おおかた見える気がするのです。いずれも、増水期の水に流され、さすらっている植物なのに違いありません。蛇、魚、虫、鳥たちもそうです。無数の砂利にさえも、いたるところに水の作用の跡があるのです。彼らに神様があるとしたら、それはやはり水なのです。 神様の気まぐれのせいで、今年は勢力の弱い虫取りなでしこが、それでも精一杯花をつけてふるえているのが、特に可憐でした。

K教授の場合

Kさんはある大学の哲学の教授です。四年前、初対面の折りに、執筆の疲れの解消法を教えてくれました。瞼と眉のあたりをマッサージするといいと言い、くわしくやってみせたのです。とても親身な感じでした。 次に会った時、彼が独身で、母ひとり子ひとりの暮しをしていると話したので、それで解った、と私は気づきました。さきに教えてくれたマッサージは、お母さんから出たものだろう、どこか古風でねんごろな仕草だったな、と思い浮かべました。私は間違っていたかもしれません。そのことをKさんに聞いてみたわけではありませんから….。しかし、どうも間違っていたとは思えません。その後も、Kさんにはお母さんの気配が感じられてならないのです。 彼は六十前後なのに素直な少年の面影を残し、哲学の学究などによくあるように、世間ばなれしていて、およそものにこだわりません。態度も言葉も明るく軽妙です。 その時彼は、最近母が足が不自由になりましてね、と言っていました。十年ほど前、犬を連れて散歩に出て、引きずられて転んで、くるぶしをくじいたのだそうです。一応治ったけれども、ここへ来て再発してしまいました。やはり体力が落ちたからですね、と話しました。私が、おいくつですか、お母さんは、と訊きますと、八十二です、と応えました。

次に会った時には彼は、彼女に最近幻覚が出るようになったんですよ、と話しました。先夜は、結核で早逝した長男と夢中で会話していたというのです。….お前病気なのに、なぜ降りてきたのかい。安静にしていなきゃいけないんだよ。これからは、鐘を枕元に置くからね、鳴らして呼んでおくれ。すぐに行くからね。….こんなふうに言っていたそうです。しかし、やがて相手がいないことに気づいて、わたしを二階へ連れていっておくれ、兄ちゃんが上で寝ているんだから、とKさんにせがんだというのです。彼は彼女をおぶって、階段を登ったとのことです。 彼女が鳴らすようにすすめた<鐘>も、Kさんはおぼえているのです。屋台の車を曳いてくる飴屋が、子供を呼ぶために振る真鍮の鐘です。四十五、六年前、結核でひとりで寝てる長兄の枕元に、それが置いてあったのだそうです。 大変ですね、学校とお母さんの看護と両方で、と私が言いますと、そんなこともありません。このところ姪が来てくれているんです。彼女は編物を教えていますから、家にいて仕事ができるんです、とKさんは応えました。 彼は自家の歴史を調べて、三巻くらいにまとめる希望を持っています。だから、いそいそと定年を待っているようなところもあるのです。彼の場合、その記録を残すということだけではなく、本当の狙いはむしろ、家族の感情のありかたを書くことにあって、そのためにも、お母さんの最近のひとりごとに興味を深めているとのことです。おふくろのひとりごとを聞いていて、もっともだと感じたり、こんなことを考えていたのか、とハッとしたりします。目を開かれたり、示唆を受けたりします。ぼくもしばしば彼女の幻想世界に生きることができるんです、と彼は言っていました。

名犬ビー公

家でビー公を貰ったのは、私が小学校四年の時でした。尾を千切れんばかりに振り、這い寄ってきたりしましたから、大好きでしたが、それだけに、ひとにも良い犬だと認めてもらいたかったのです。体長が六十センチほどしかなく、それ以上大きくならないそうだ、毛並みはふさふさしていて、かなり艶がある、顔立ちも悪くない…. 、そんなことを美点と考えて、友達に言ってみました。しかし要するに自分の贔屓目にすぎない、とどこかで自覚していたのです。 ところが、ビー公は名犬の証拠を示しました。 樺太(サハリン)へ出張する父が、冬の未明の列車に乗り、かなり走ったところで、座席の下にいるビー公を発見しました。父はこの犬に大して関心がなかったし、それに時間を定めて通しの切符も買ってありましたから、心を傷めつつも、海岸の小駅のホームへ生後四カ月の犬を降ろしてしまったのです。 その用宗(もちむね)駅は断崖のかたわらにあって、千数百メートルのトンネルを抜け出たところにあります。わが家からの距離は数十キロでしょうか。当然父は、ビー公ともこれが永久の別れと思ったそうです。そのむね彼が東京から電話をよこした時、わが家をあげて悲しんだものです。

しかしこの犬は戻ってきました。三日目の午後、よれよれになって庭に入ってきたのを見つけたのは母でした。先ず牛乳などで歓待し、それから、波の洗う崖の下を来たのか、それともトンネルの長い闇をくぐって来たのか、などと論議がはじまりました。失われた一頭の羊が見つかった時には、近所の人まで呼んで大騒ぎする、という故事も偲ばれます。 この出来ごとがあって、勿論ビー公の株はあがりました。私ももう、その美点を無理して探す必要など感じなくなり、すっきりしました。愛らしさと誇らしさを、自然に感じるようになったのです。 現代の犬は、この例のように、本能的な方向感覚や対応力を試される機会(あるいは危険)は少いでしょう。しかし私は、テレビで警察犬や盲導犬、それにこのたびの震災に現れた救助犬などを見ると、やはり、ビー公だったらこうもなり得ただろう、と想像します。そして更に、こんな犬たちの飼主や世話人はきっと誇らしいだろう、と昔を思い出すのです。特に盲導犬の場合、役に立ちながら、黙って情緒を通わせている姿がけなげで、主人も満足に違いありません。 多くの品評会では、犬のマナーも含めて、見てくれが問題になっているだけです。堂々たる犬、華麗な犬、愛くるしい犬….、などを追い求めるのは、無邪気な趣味とはいえ、表面的でいささか深さに欠けます。すべての犬が言っているのではないでしょうか。あなたがたが美点と考えているようなことは、実は犬良さではないのです、と。 過日シベリアン・ハスキーを散歩させている女性と道で出会いましたので、迫力がありますね、恐ろしいほどですね、しかし可愛いですね、と私は言いました。すると彼女は、この犬はアホです、と言いました。そんなことはありませんよ、と私は否定しながら、あるいはシベリアン・ハスキーはおかしな場所に連れてこられたのかもしれない、と思いました。

ゆかりの遠州森町

いさをさんと三十数年ぶりに会いました。彼は祖母の甥で、私が赤ん坊の時から小川の店に奉公していて、毎日のようにおぶってくれたとのことです。なつかしい人です。それで、話題はさまざまでしたが、話中の主役は何といっても祖母でした。 彼女は慶応二年に、遠州森町の青田という家に生まれました。名前はよしです。父親は鶴吉といい、建具屋、つまり指物師でしたから、通称は指鶴だったそうです。私はこの曽祖父の顔は知りません。しかしその親戚なら、いさをさんをはじめ五、六人と会ったことがあります。宗五郎とか福三とか寅吉とか、名前を並べただけでも、読む人には<その道>の気配が感じられるかもしれませんが、そうだとすれば、名は体をあらわしていたと言わざるを得ません。 今回のいさをさんの話で唖然としたことは、彼はみよ兄という、やはり身内の一人と浜松の町はずれを歩いていて、蕎麦屋に入ったことがあり、その時、ちょっと待っていな、と言ってみよ兄は出て行ったそうですが、やがて戻ってきて、気に喰わない野郎をかっくらせてきた、と言いながら、腹巻に差した長い短刀を見せたそうです。そして、死ぬかもしれんな、と呟いたのだそうです。 指鶴は宿屋、仕出屋も兼業していました。祖母は昔語りに私に話したものです。子供のころ、刑務所か拘置所に囚人たちの弁当をとどけるのがわたしの仕事だったよ。おかもちを持って田圃道を行くと、みんなが格子のついた窓からうれしそうにわたしを呼んでくれたっけ。

彼女は別のことも話しました。家には石松が来て、しばらくゴロゴロしていることもあったんだって。お父っつあんのことだから、宿代なんかろくに取らなかっただろうね。 (おそらく)ハイティーンのころ、彼女は妹と二人で田舎回りの一座に身を投じ、静岡県、愛知県のあちこちを歩くことになります。どこでもお客の入りを心配して、ハラハラしたよ。それから、ご飯を食べるお茶碗が足りなくて、一人が食べ終わるのを待って、次の人が食べるんだに。親方のおかみさんがおしゃもじを持っていて、他の人にはよそわせなかっただに、と彼女は話しました。 こうされたことが尾を引いたのかどうか、彼女はあとあとまでしゃもじを自分の権威の象徴のように思っていて、やがて嫁にきた私の母などを泣かせることもあったようです。 祖母が旅役者だった時代に娘義太夫が流行していたかどうか、私は知りませんが、ともかく、彼女は舞台で義太夫を唸ることもあったそうです。これが後年の彼女の趣味につながったのでしょう、ガーガーピーピー言うラジオの前に向って正座し、瞑目してその放送に聞き入っていたものです。 私は祖母の故郷に特に意識的です。それなのに最近まで、石松のことを言いながら<遠州森町良い茶の出どこ>などと世間で歌うのはいい加減だ、と思っていました。なぜなら、市町村制が施行されたのは明治二十一年なのですからころが、私の不明でした。この地は徳川時代には、森町村とよばれていたのだそうです。

名画獲得

平井顕斎は数多い渡辺華山門下の中でも、すぐれた一人です。大井川のほとりの川崎の生まれで、そこの円成寺に十六羅漢図があると聞いて、私は自転車に乗って訪ねたことがあります。旧制の高校生だった時のことです。炎天の真夏でした。ようようその寺の庫裏に入ると、目に見えるところで奥さんが昼寝をしていましたから、私は蝉しぐれに負けないように声を張って、こんにちはをくり返しました。彼女は眼をさまし、学生の無遠慮を咎めもしないで、こころよく座敷に通し、その十六幅をかかげてくれました。華山にもひけをとらない描写力が、今も目に残っています。昼寝の痕跡として、奥さんの頬についていた畳のめの模様も忘れられません。 私は平井顕斎を意識するようになりました。ところが四年ほどして、東京で大学生だった時、姉夫婦がこの画家の一幅を持っていることを知ったのです。聞けば、ある人の世話を熱心に長い間したので、お礼にくれたと言うのです。夏山峡谷とでもいうべき山水でした。姉を羨みながら、眺めていました。すると姉が、これ本物かしら、と訊きました。いい絵だとは思うけれど、ぼくにはそこまでは解らない、と私が応えますと、上野の美術館にあなたのお友達がいるわね、その人に訊いてくれないかしら、と頼むのです。

それで、私は軸を持って上野へ行きました。友人が紹介してくれた同僚の専門家が鑑定してくれたのですが、結果は、残念ながらにせものということでした。 報告しますと、姉は不機嫌になってしまい、にせものをくれるなんて非常識だわ、と言いますので、くれた人だってにせものとは知らなかったんだから、と彼女をなだめたのです。すると彼女は、これあなたにあげる、と投げだすように言いました。 こうして、この絵は私の家の戸棚にしまわれることになりました。しばらく忘れていましたが、やがて十年ほどして、私は岩富さんにそれを見せたのです。彼は新しく知り合いになったわが畏敬する鑑定家です。じっと見つめていました。そして、顕斎ですよ、間違いありません、と言いました。 私は上野の美術館がいかに説明したかを、話しました。顕斎の集印帖を開いて、中に絵のものと同じ落款がない、と言ったのです。聞いていて岩富さんは、館員はその程度ですよ、と笑いました。そして、じゃあ念のため証明しましょう、と言い、翌日一幅の顕斎の現物と数葉の写真を持ってやってきて、問題の作と克明に照らし合わせたのです。絵も字も、その筆使いが一致していて、不思議なほどです。その上、紙も幕末のものだとのことでした。 岩富さんは初心者のために証明の労をとってくれたわけです。彼のことを<畏敬する>と書いたのには勿論他にも理由があります。秀吉の手紙や芭蕉、去来、其角の字や仙崖和尚の絵とされる幅を見せられて本物と、大観や桃山時代の大家のものとされる絵を見せられてにせものと、彼は即座に断定したことがあって、私は感心しているからです。 姉は、本物ときまったのなら返してちょうだい、と言っています。しかし私は、くれだましはよくないよ、と言って応じません。

暴力の負い目

小学校五年の時結核にかかり、二年半ほど休学し、復学すると間もなく、旧制中学に入りました。一度ヒビが入った体だから、と心配していた母は、徒歩通学が規則だった四キロほどの道のりを、家の子だけには自転車を使わせてほしいと、学校に許しを求めました。依頼を受けたのは山内さんという事務長で、当時<書記>とよばれている人でした。彼は軽く考えたのか、よろしいでしょう、と返事をしたのです。太平洋戦争開戦の翌年のことです。 最初は自分だけ特別にされるのはいやでしたが、やはり便利でしたので、しばらくすると気にすることもなくなり、自転車で通学していました。ところがそれが問題だったのです。朝礼の時<訓育主任>の佐光という先生に殴られ、長い説教をされたのです。山内書記が許可してくれた、と言い訳をしましたが、佐光先生はそれには応えず、絶対に許さんぞ、と言っただけでした。 その夕方、自転車にまたがらないで帰途につきますと、うしろから山内書記が追いついてきて並び、あやまるような口調で言ったのです。自分はかまわんと思ったんだがな、やはり通らなかった。自分も佐光先生に注意されてしまった。仕方がない、これからは歩いてくれ。 それだけのことなのですが、私はやりきれなかったのです。家へ着くと、弱い母は猛然と喰ってかかりました。なぜあんなことを頼みに行ったんだ、と言いました。そして、お前のためを思ったからこそだ、という彼女の返事に激昂して、母を蹴りました。思いきりやったとは思いませんでしたが、彼女の右足頸の骨を傷めてしまったのです。それからしばらく、彼女はギプスを嵌めていました。

しかし、知り合いが怪我の原因をたずねても、彼女は言いませんでしたし、家の者にも他言してはならない、と口止めしていました。そんな場面を見聞きすると、私の疚しさはなおさら募りました。夜ひとりでいる時など、お前は変な奴だ、とつぶやき、身の置きどころもない思いをしたものでした。 父を殴ってしまったこともあります。 終戦後、中学のチームがサッカーの試合をするしないでもめたことがありました。相手は東海大学のチームでした。学校側はやってはならないと言い、部員たちはやろうと言い、世話役だった私は、仲に立って途方に暮れていたのです。夜の十一時ころまで、教頭の許可をとりつけようとしたり、部員をなだめようとしたりして疲れきったことがあって、解決がないまま帰宅をしますと、お前そんなことに深入りするんじゃない、いい加減にしておけ、と父が言ったのです。 その言葉に私は激怒し、われを忘れて、父を殴ったのです。庭で起きたことでしたから、父は痛い痛いと言いながら、木蔭の闇へよろめいて行きました。その姿を見ながら、なんだ一体、これはこの世のことじゃない、とでもいうべき気持が湧いたのがまだ昨日のことのようです。 私たちの少年時代は、荒んだ世でしたから、現代よりも暴力を振るったり振われたりしがちだったけれど、今となれば大方は済んだことのように思えるのです。しかし親を蹴ったり殴ったりしたことだけは、そうは行きません。心にまといついてきて、終りはないのでしょう。

平家物語

平家物語の<小宰相身投(こざいしょうみなげ)>のくだりを読むと、彼女の像がくっきりと浮かびあがってくる気がします。彼女は夫が戦死したことを知らされて、あと追い自殺を決意し、心のうちをかたわらにいる乳母に打ち明けます。そのかなり長く、哀れで優雅な告白が私は好きです。特に心惹かれるのは、<もしふしぎなめぐりあわせで、この世に命ながらえるとしたら、思いもかけないことだけれど、ほかの相手とめぐり合うこともあるかもしれません。そういうことは、思っても憂鬱です>と彼女が言うところです。わたしの相手は、亡くなったあなただけです、と言っているのです。 ある相手を愛して生き、その相手に死に別れ、やがて他の相手を愛するようになることがなぜ憂鬱なのでしょうか。喪中にあとがまを期待するのはおかしいにしても、そうなるかもしれないと怖れるのも不自然と言わなければなりません。小宰相はまだ二十歳ですから、心乱れて考えが飛んでいるようにも思えます。そんな様子が涙を誘うというのでしょうか。 そうではないでしょう。彼女はけなげにも筋を通しているのです。信心深い彼女は、ただ一人の相手と死後も添いとげようと考えているのです。もし現世で二人以上の異性を順次に愛するようなことがあったとすれば、来世ではその中のだれと契るのでしょうか。

ところで、今から四年ほど前、七十歳で教壇を去る大学教授と、大阪天王寺で飲んだことがあります。いささか酔って、彼は真情を吐露しました。来しかたを振りかえると、心に刻まれて忘れることができない女性が三人いる、と彼は言うのです。 一人は、二十代前半だった彼が、瀕死の恋をした相手、とのことです。虫の声を聞いても彼女からのメッセージのように感じられたと、彼はなつかしそうに語りました。交際は四年続いたけれど、自分の兵役があったりして、正式に結婚できなかったというのです。二人めは同僚だった独身の女性講師で、彼女と会えるので学校へ出るのが楽しかったし、仕事にも張り合いがあった、あの時期の自分は充実していた、とても理解力のある相手だった、などと彼は三十代後半の女性関係も回想しました。しかしたがいに勤め先が違ってしまい、おのおの仕事にかまけていくらか疎遠になったと感じているうちに、彼女は亡くなったとのことでした。そして晩婚の彼は、今の奥さんと一緒になるのです。三人めの女性です。穏かに忍耐する人で、いたわってあげなければ・・・・、と考えていると言っていました。 真摯な話しぶりでしたし、私は傾聴していたのですが、その時チラと小宰相のことが頭に浮かんだのが悪く、妙な質問をしてしまいました。 先生、来世で、その三人のうちのだれと一緒に住みたいと思いますか。すると彼は砕けた返事をしました。三人と一緒に住みたいですな。しかし、それは不可能でしょうから、だれでもいいんです、三人のうちの一人なら。それなら相手も承諾してくれるでしょうし・・・・。 このようにして、もとはかなり真剣な話だったのに、冗談につながって行ったのです。私が感じたのは、現代のどこにも、小宰相の亡霊さえいないということでした。

愛の暮らし

同人雑誌に載っていたAさんの童話を読みました。たまたま読んだのです。 少年が夜空を見ていると、月光のしぶきがあがり、その向うから船が現れてくるのです。少年は妹にそれを告げますが、彼女は信じません。しかし、本当なんだと説いて、妹と二人でいく晩も夜空を見続けます。すると、ついに彼女の目にもその船が見えてきます。澄みきった青の奥から湧き出て、二人を迎えようと近づいてくる、というのです。 私はAさんに感想を書きました。そして初めて彼と会ったのですが、驚いたのは、Aさんがおよそこのような物語の作者らしくなかったことです。彼は大井川の河口近くに住んで、運送会社を経営していました。七、八台のトラックをチャーターし、砂利を首都圏へ運搬させていました。セメント会社と契約を結んでいるとのことでした。 しかもA社長は、二間と台所の手ぜまなアパートに、二十歳も年下の愛人と二人で仮住居していたのです。聞けば、彼女とのことがあって、本宅をとび出し、空っ風が吹きつける現場の事務所近くに移ったとのこと。 やがて、砂利運搬は船にとって代わられましたから、彼は他の荷物を扱うようになるのですが、その切り変えもひと仕事だったのです。

つき合っているうちに、彼のロマンチックな側面もわかってきました。金銭には重きをおいていなくて、時間や約束にはルーズなところもありましたし、文学談義だけは身についていましたし、それに、ひと一倍女性に郷愁を感じる性質だったのです。隠そうともしなくて、いわば、全生活にその趣きがにじみ出ていたのです。 彼の愛人のSさんは山梨県の農家の出身とのことで、しっかりした生活感覚と、文学へのウブに過ぎるあこがれを抱いている人でした。身なりがきちんとしていて、料理がうまい人でしたし、中年男が人生を踏みはずすだけのことは、私にもいやというほど解りました。 ところが、ある夕方私が訪ねますと、別の女性がいたのです。二人出窓に腰かけていました。Aさんが目くばせして囁くところによると、昔の女とその友達がやって来たとのことでした。抗議に来た気配でした。あるいは金銭にからんだ話もあったのかもしれません。二間のアパートに、女三人と男二人が頭を揃えているのです。Aさんにしてみれば、息づまる思いでしたでしょう。しかし表面は平静に、私に自作の感想をたずねたりしました。私は彼と話し合いながらも、気が気ではなかったのですが・・・・。 次に訪ねますと、Aさんは一人きりになっていました。Sさんが、旅をしながら考えたいから、と言ってアパートを出て行ったというのです。Aさんはせつに引きとめたけれど聞かれなかった、……そしてぼくはね、お前がいなければ駄目なんだ、と言いながら、あいつが箪笥から出した下着とワンピースを鋏で切り刻んだんだ、どうしようもなかったんだ、ぼくじゃあなくて、ぼくの手がやったことだ、と彼は言って、そのズタズタになった衣類を見せたのです。 告白を聞き、異常な証拠品を目のあたりにして、私はどうにかならないものかと焦ったものです。

遠慮勝ちな友達

三月前、この欄で鳥の巣のことにふれました。(茶の間の)縁側に近い植えこみの葉陰に、細く裂いたビニールや棕櫚(しゅろ)の毛をない合わせた、小さな巣をかけた鳥があって、そのほの暗い底には白い卵が一個産んである、と書きました。 おそらく雉鳩だろう、と思いました。その理由は、庭でこの鳥を時々見かけるからです。徹夜して、明けがた庭を歩いていますと、鼻先の枝から飛びたったりします。それに、裏山の木立で、よく似た巣を見たことがあったからです。人の手のとどきそうなところにその巣をかけ、その枝をしなわせて親がとまっていたことがありました。 物の本によりますと、雉鳩は小さな巣に純白の卵を二個産む、とありましたから、疑問は残りましたが、そのうちに、一羽の雉鳩が茶の間の近くまで飛んできて、当の巣を意識しているようにせかせかと地面を歩いていましたから、思った通りだ、いよいよ来たぞ、とうれしくなったのです。ところが、その雉鳩はしばらく歩いていて飛び去って行き、もうそこへ来なくなってしまいました。 青大将を恐れでではないでしょうか。簀の子でふさいである縁の下は静まり返っていて、なまぐさい気配はありません。青大将はまだ寝ぼけていると思われます。蛇ではないとすれば、親鳥が気にしていたのは人間としか思えません。きっとそうです。

親鳥は夜中から夜明けを選んで、人知れず巣をこしらえ、卵を産んだとしか思えません。(真夜中から朝七時ごろにかけて、かたわらの茶の間には人気がなくなるのです。)そして、すべてを終えてから、しまった、場所を間違えた、と思ったのではないでしょうか。それにしても、いともあっさり努力の結果も希望も放棄してしまったものです。もう百日以上、巣も卵もかえり見られないし、このままなのでしょう。 庭の他の地点へなら、依然雉鳩はやって来るのです。人なつっこくはないまでも、よく身近に見かけます。だから、私が実感しているのは、産卵と仔育てにかかわると、親は警戒心がつのり、神経が立つということです。 雉鳩は地味だと言われます。しかし、できたら触れたい程きれいです。当方としては、このたびは違和感を抱かれてしまって残念ですが、焦ってもどうにもなりません。 ところで、野鳥を眺めるコツは、言うまでもなく、こちらの動きを止めてうかがうことです。わが家では、そのやりかたさえ守れば、いく種類かの生態を、座敷にいて知ることができます。その際、私が特に惹かれるのは雉鳩と鶯(うぐいす)です。 居ながらにして見ることはできませんが、散歩の道で出合ってうれしいのは鷭(ばん)です。引きしまっていて、敏捷で、そしてやはりひっそりと住んでいるのが魅力です。眺めていたいのに、すぐに逃げられてしまうから、かえってその様子が目から消えないのです。 隣のお寺の庭には泉水があって、白鷺、五位鷺が舞いおりることがあります。広大な大井川河口から来るのです。住職に招待してもらって、酒を含んでその立ち姿を眺めるのは、わが家では望んでも得られない、夢のような時間です。

わが町、わが家

祖母が家の者に言いつけていました。わが家の前を掃いたら、続けて両隣の前を掃きなさい。そして、向いの三軒の前まで、水を打ちなさい。更に、その際集めたゴミは、わが家のゴミ箱に入れなさい。 いささか教条めいた言いかたでしたが、大体同じようなしきたりが、町では一般的だったようです。私が子供だった時代のことです。相手にも同じような奉仕を期待しますから、美風とまで言えるかどうか、ともかく、このようなしきたりは、今は歩道で細々と行われているだけで、大方ほろび去ったといえるでしょう。 二十五年ほど前、市会議員選挙があって、近所の人が当選しました。その夜おそくまでその家は祝いに賑わっていました。そして翌日の夜明け、私が町内を散歩していますと、当の新議員が路地のドブ板を直していました。しゃがんで、危くないように工夫して釘を打っていました。ありがとうございます、と私は礼を言いました。そんなやりかたが、古風だけれど、町の世話役として自然だったのです。

勿論現代の町からは、ドブ板は姿を消しましたし、こまやかな心づかいの住民も、ほとんど出る幕がないかのようです。町はコンクリート、アスファルトで固められ、金属の柵をほどこされています。ゴミ処理でいうなら、その主役は機械です。ほうきも見かけませんし、棄て場の穴も掘りませんし、それを運ぶリヤカーもありません。パリのゴミ処理で好評を博したシラク前市長を、市民は褒めつつブルドーザー(あるいは、ダンプカーか)とよんだそうですが、象徴的なたとえです。 それでは、町への奉仕の手しごとは根絶したのでしょうか。 夜おそく散歩しますと、公園を掃き、ゴミを拾っている池田さんがいます。観光バスの運転手さんですが、自分の家に隣接するこの小さな運動場のことが気になるのだそうです。一日の仕事が終って、余裕があると、思い立ってやっている、とのことです。 朝早く近くの池のほとりを散歩しますと、大きなタモを持って、水面に浮ぶプラスティック製品をすくっている鈴木さんに会います。彼はその作業を日課にしているのだそうです。夕方か早朝、やらないと気が済まない、とのことです。白い魚を池へ投げてくれる人がいて、困るよ、この池はぼくの家の庭の続きなんだからね、と彼は笑うのです。 少くともこの二人にとっては、町は依然としてわが家の延長なのです。内に働いているセンスがそのまま外にも働く、ともいえるでしょう。 ところで私は、こうした人に感心し、申しわけなく思ってはいるのですが、手伝おうとはしません。理屈は言うが、手は出さない不精者なのです。 散歩から書斎へ戻りますと、そこには煙草のすいがらは山をなし、ウイスキーのグラスが転っていたり、珍味がバラまいてあったり、書き損じの原稿用紙が所せましと散らかっていたりします。菌が湧きそうだ、と感じる人があっても不思議ではないほどです。内に働いているセンスがそのまま外にも働くものなら、私のような住民は町を駄目にするだろうと考えざるを得ないのです。

花々の匂い

ほとんど毎晩徹夜していますが、勿論それが楽しくはありません。ことに二時過ぎに遠くで鳴く一番鶏はもの悲しくて、自分の生き方を考えさせられます。それに引きかえて、夜明けに聞こえてくる鶯の声や、庭で見かける雉鳩の姿には慰めがあって、つかの間とはいえ、徹夜の功徳を感じさせてくれます。 花についても、同じような思いがあります。たとえば、わが庭には五株の大きなつつじがあって、五月六月には、赤、白、ピンクの花をいっぱいつけます。その咲き乱れる繁みの中に、私はしばらく立っているのです。まだ日も射しはじめなくて、しっとりした空気には匂いが融けこんでいます。 つつじの香りは、かなり強くても、いつも淡白で爽かです。しかし七月八月の夜明けの蓮の花の香りは、随分違います。 わが家の近くには、周囲千五百メートルほどの池があって、私の散歩コースになっていることはこの欄に書きましたが、そこをしらじら明けに歩いていますと、あちこちでスパッと音をたてて、蓮の花が開きます。私はういういしいその匂いを吸うのです。甘くかなり大味で、場所がらもあって、水を感じさせる匂いです。子供のころから親しんでいる匂いであるにもかかわらず、なぜか異国だねの感じを拭いきれません。

少し前、五月のころには、私は池のほとりを長い藤棚の下を歩いていました。その花房の香りは、主観的な私に、漱石の<虞美人草>の藤尾を想像させたりします。 薔薇園に沿った道を、明けがた歩いていたこともありました。まだ青い薄闇と白い霧が残っている時刻でした。金網のフェンスには蔓薔薇がからまり、向うに花畑が見えました。この香りは緻密で節度がある、などと私は呟き、いい気持になって、かなり大輪の一枝を折ろうとしたのです。少し手まどっているうちに、足もとに栽培者がしゃがんでいるのに気づきました。しかし、いたのなら言ってくれればいいのにと半ば相手のせいにして、一本いただきたいんですが、と彼に事後承諾を申しでたのです。すると彼は立ちあがりました。見たこともない人でしたが、やるよ、持ってきな、と言ってその枝を鋏で切ってくれました。 私には、彼も自分も非現実的な気分に陥っていた、と思えてなりません。私はその一枝を部屋に持って帰り、コップに差して枕もとに置き、熟睡したのです。 そのほか私がよく知る花の香りは、北アフリカの圧倒的なダクテュラ、母の思い出がからむきんもくせい、夜つきまとってくるくちなし、などがあります。 夜の散歩の時には特に、ほとんど目に見えない花をたずねて行くしきたりが身についてしまったのです。くちなしはどこにあるか、小さな株でも勿論すぐにわかります。てっぽう百合も、梅も菊もありかを知っていますし、思いがけなく出合えば、しめしめと思うのです。花に鼻をさしこんで嗅いでいたりします。あたりを見回してからやっていますが、もし人に見られたら、江戸川乱歩の小説を思わせる不気味なおやじと思われるかもしれません。

お戻りさん

静岡の不二女学校(現雙葉学園)の生徒だった姉が、お戻りさんのことを話して、仕草をやって見せたことがありました。それから七、八年して、大学生だった私は、話題の主を見たのです。五十歳くらいの女性でした。私が不二女学校の隣りのカトリック教会の二階の部屋に坐って、なにげなく窓の外を眺めていますと、彼女が濠ばたの道を通りかかりました。十メートルほど進んでは十メートルほど戻り、今度は二十メートルほど進み、十メートルほど戻り、といった具合に、もどかしく、念のいった歩きかたをしていました。 当時宝生流の名匠高橋進師から謡いを習っていた私は、似ているな、と思いました。師も一節を二度ずつ唱わせ、自分も唱ったりして、行きつ戻りつして、稽古を進めていったからです。そのことだけでなく、あの女性には身につまされるものがある、とも思いました。私にも過度に確認する性質があり、その結果、常識を越えた状態になってしまう気がしていたからです。 それから四、五年して、パリにいた私は、オペラ座の近くのマドリッド街に下宿することにしました。経費節約のため、八階の屋根裏部屋に入ったのです。安いだけあって、エレベーターは使わせてもらえなくて、狭い階段をえんえんと上り下りしなければなりませんでした。ある冬の日の午前、コーヒーとパンの朝食を済ませ、友達を訪ねることにして、階段を下りたのですが、ガスを消し忘れたのではないか、と気にかかりました。

酷寒の日でしたから、行動に移る直前まで、炊事場のガスに陶器のほやをがぶせて、点けておいたのは覚えていましたが・・・・。下りきったばかりの階段を上ってたしかめに行きました。ところが入口のドアの前まで戻って、鍵を持っていないことに気づきました。それを部屋においたまま、自動施錠のドアを閉めてしまったのです。仕方なく一階まで階段を下り、管理人に頼み、不気嫌になった彼と一緒にまた階段を上り、部屋に入ったのです。ガスは消してありました。 お戻りさん、と自分に向って言ってやりたいような気持でした。 私の確認癖は<過度>なのでしょうか。<必要>なのかもしれません。それがあるからこそ、これまで大過なく来たのかもしれません。しかし、バランスが欠けていて、苦しい癖であることには違いありません。 ガスの話は、縁があって当時親しくしていたエスペーホさんに彼の楽屋でしたことがあります。彼はオペラ座に付属するモガドール劇場の楽士でした。笑いながら、君には失敗は少ないだろうね、と言ってくれました。私の自己嫌悪を思いやってくれたのです。ところが、同席していた同じバイオリニストのエンリコ・ペルータさんに対しては、辛辣な言いかたをしました。開演も間近になったころ、ペルータさんは、自分専用のボックスに走って行きました。そこに洋服や所持品を入れたあと、鍵をかけたかどうかわからなくなったと言うのです。 哀れなエリンコ、あの男は自分のボックスを、気になりだすと五回も確かめに行くんだよ。彼がそこにいなかったから、エスぺーホさんはそう言ったのです。 <哀れな>は、勿論私にも当てはまる、と思いました。

入試問題

東京で学生だった私は<動員時代>という短編を書きました。作文のような素朴な作品です。田舎の中学生だったころの自分を回想して、おおよそありのままに書いただけです。 ある時私の部屋に電話がかかりました。浦和に住んでいる受験生からでした。自分は大学への受験準備をしているものですが、今夜ラジオの講座であなたの<動員時代>を勉強しました。今終ったところですが、どうも講師の説明に納得の行かない箇所があります。それで、あなたに直接お電話して、ご意見を聞いてみたくなりました、と言うのです。 彼が納得が行かなかったのは、次のような質問についてでした。<それで、主任の、そんな風では一高へあがれるような内申はとても書いてやれない、という言葉は私に問題だった。この蒼白い、天の門へ上るすべがなくなれば、軍人、すなわち怒号と動物精気の中で(  )以外にない>というくだりの、(  )の部分をどのようなフレーズで埋めたらいいかという質問についてでした。 講師は<途方にくれる>が正解だと教え、その理由を説明しました。しかし、必ずしも講師の言う通りでなくていいような気がするのですが・・・・、と受験生は言い、いくつか例示されていた選択肢を読みあげました。

とっさのことでもあり、私も混乱気味だったのですが、この場合、原文と一致すればいい、としか考えようがないのではないかと思い、原文を確認しました。するとそこは<抽象され、抹殺される>と書いてありました。それを告げますと、受験生は、自分もそのほうが正解ではないかと思ったのです、と満足げでした。 これで電話の用件は終った、と私は思いました。ところが受験生は、勢いづいたのか、更に言うのです。 あなたの<動員時代>に関して他にも設問が四つあります。今からそれを読みあげますからメモなさって、それから本を睨みながら、考えてみてください。 私は応えました。それをやっていたら、四、五十分はかかってしまうだろう、君、電話料がかさむよ。すると彼は、親父が払うんですから、ご心配なく、と言うのです。 こうして、浦和の受験生との長いやりとりが始まったのです。終りに漕ぎつけますと、ラジオの講師が示した正解のリストにのっとって、私の出した答えを点検してくれました。正解が七割を越えているとのことでした。これは受験の解答としては、相当の出来栄えで、しばらくこの向きの勉強をしても、なかなかこれ程には行かない、と私を褒めるのです。 私が間違えてしまった問題に、<この短編の主人公の性格>があります。ここにも選択肢があって、<大胆でかつ思慮深い性格>などと五つばかり例示されているのです。いずれを取るにしろ、先述したように、この作品はおおよそありのままの体験を書いたものですし、主人公の考えかたは私自身のそれと同じなのですから、私は私の性格を自問していることになってしまうのです。妙な気分でした。それで、できるだけ客観的にと心がけながら、<いろいろ考えたあげく、なぜか自分にも意外な行動をとってしまう性格>という例を選択しました。しかし、やはり欲目が働いていたのでしょうか、正解は<小心で虚栄心が強い性格>だったのです。

列車事故

空いている列車やバスに乗って、ぼんやり窓外を眺めているのが好きです。あえて更に好みを言わせてもらうなら、一番前にいて、フロントガラス越しに、前方を見ていたいのです。風景が湧き出て、こちらへ押し寄せ、時にはとびかかってくるようですし、船の裂く波のようにすぐにうしろへ流れ去ります。なんだか、それらを体で受けとめたり、かわしたりしているような気がして、新鮮なのです。 私だけの感じかたでもないように思います。映画や小説にも、この同じ視界が描かれていて、効果をあげているのです。今その例を列挙しますと、ジャン・ルノワール監督の<獣人>、アンリ・ヴェルヌーユ監督の<ヘッドライト>、藤枝静男著<しもやけ・あかぎれ・ひび・飛行機>、ウイリアム・フォークナー著<死の床に横たわりて>などがあって、忘れがたい名場面が描かれています。しかし、これらの作品では、勿論この前方の眺めを、ゆったりと楽しんで鑑賞することはできません。そこには見る者をハラハラさせるような恐ろしい何かもひそんでいるのです。 なぜ私が今このように書いているかというと、実は数日前、痛ましい出来事を目撃したからです。その時私は東海道線の下りの鈍行に乗っていました。乗客はそれほど多くはなく、私一人だけがフロントガラス越しに前方を眺めていたのです。列車は金谷駅を出て、山にさしかかりました。右側が雑木林、左側はなだらかな低い崖でした。

そこには小道があったのでしょう、林から出てきた年輩の女性が、線路を渡っていました。カーブが終るところで、彼女が視界に入ったのは、三十メートルほど手前だったのです。運転手がブレーキをかけたのがわかりました。私の気のせいなのでしょうが、彼女の動きはもどかしく、遅いのです。枕木の上から、彼女がこちらを見ました。その目には多少驚きがあったかもしれません。しかし、あわてているとは見えませんでした。道で具合の悪い知人に会ったので、それとなく避けようとしている程度でした。私は、早くしろ、早くできないのか、と口に出しそうになりました。しかし彼女の動きは依然遅く、のんびりしているとさえ思えました。その姿が車体のかげになって消えた時、彼女は線路をまたぎ終っていたのですが、意外に固いものにぶつかる音が足の下からしてきましたから、私はその瞬間、助からなかった、と直観しました。果たして、彼女は死んだのです。 列車は長い間そこにとまったままでした。私はしばらく興奮していましたが、やがて考えたのは、幼かった時のことです。そのころには、私は乗り物から見る前方の眺めを怖がっていたのです。原因はわが身に危険が及びそうに思えてならなかったからですが、その気持ちが昂じてよじれ、次々と人を轢いて暴走する列車に乗っている夢を見たりしたこともありました。それから、うなされて苦しむ眠りには列車がつきまとうことが多かったのです。今やそのパターンの夢から解放され、前方の眺めを楽しみつつ移動していましたから、目前の事故が悪夢がよみがえったように思えました。視界はたしかに夢のようだった、だから、足もとでガタンと音がした瞬間は、突然目が醒めたかのようだった、と思いました。

お客を殴る

同級会ほどすたれないものは少ないでしょう。この集りをよしとする者は、年とともに熱意を強めてくるようです。私たちの旧志太中学の会は、もう五十年以上続いていて、開催地はいつも静岡県の母校の近辺ですが、東京や関西からもいそいそとやってきます。 病気や身体の故障が話題になると身につまされます。若いころ、同級会に出ようとしている父に、入歯や神経痛のことを話し合うんだろうな、と笑って言ったことがありましたが、今やその言葉が確実にわが身に及んできたことを感じます。 ある同級生は言いました。 ぼくはテレビで、メキシコ人が越境してアメリカへ駆けこむ場面を見て、ハラハラしてしまうんだ。メキシコ人に、走れ走れ、と声をかけたくなる。彼らにうまくやらせたくって・・・・。こう彼が言ったのは、駅員の目をかすめて列車にとび乗った中学生の自分を思い出したからです。そのころ私たちは勤労動員されて、駅三つほどかなたの海岸の造船所へ通っていたのです。定期券は持っていたのですから、改札を通れば問題はなかったのですが、しばしば遅れそうになることがあって、枕木の柵を乗り越えたり、近道をして、線路に近い沼の葦の間から現れたりして、直接デッキによじ登ったのです。スリルを楽しむのではなく、遅刻して先生に説教されるのが怖かったからです。しかしそれもうまく行かないことがありました。駅員が見張っていて、つかまってしまうと、殴られたりしました。事務室へ連れこまれて、名前を聞かれ怒鳴られたりすれば、禍いはさらに拡大しました。

これもなつかしい思い出です。しかしその友人は、悪酔いしたのか、話しているうちに、怒り始めたのです。あんな理不尽なことがまかり通ったんだ、などと言っていました。 ショッキングな打明け話をした友人もありました。列車に乗ると、途中に二千メートルほどのトンネルがあったのですが、しばしば停電しましたから、数分間は真暗闇の中にいなければなりませんでした。その時彼は、同じデッキにいた女学生の下半身を、拳で突いたというのです。そして、トンネルを抜けて明るくなった時、彼女がどんな顔をしているか観察したとのことです。蒼白になっていた、と言っていました。 ところで、この時の同窓会は妙な具合に尾を引きました。前記の変則乗車のことを話した友人が、東京へ帰る列車に乗っていると、切符拝見が来ました。悪酔いが続いていたらしく、それを拒んだのです。おれは改札を通ってきたんだよ。それでいいだろうが、と彼はからみました。 翌日東京に用事があって彼と同行していた私は、隣の席にいて、唖然としながらも眠るふりをして、聞いていました。彼は次のように続けました。 あんたは今<お客さん>と言ったね。あんたたちは、本当にそう思っているのか。仕事だから、仕方なしそう言ってるだけだろうが。俺も商売やっているが、お客さんを殴るなんて、とんでもないことだぞ。乗客を殴っていた、これは鉄道史の恥ずべきひとコマだ。あんたたちはそんな伝統から本当に足を洗っているのか。 車掌さんはうんざりしたでしょう。ここは飲み屋じゃないのに、あきれたおやじだ、と思っていたでしょう。

同級会が好き

旧制中学の友達のなかに、両親のいない級友がいました。その一人が増見君です。彼はたしか妹と二人、親戚の家に引き取られたとのことでした。そのせいなのかどうか、家よりも学校のほうが好きなように見えました。校内でも、放課後その辺をうろつく時にも、彼はだれにも増していきいきしていました。学校に近い私の家へ来ても楽しげでしたし、こちらも大歓迎でした。その後、彼は東京芸大でデザインを学び、卒業すると、独立していそがしく仕事を始めました。やがて都心のビルにアトリエをかまえて、ますますいそがしく働いていました。 増美君が好きなのは同級会でした。郷里で開かれる集りに、毎回顔を見せはしゃいでいました。しかし疲れていたのです。幻覚が見えると彼が言った時、私はその繊細な性質を考え合わせ、痛ましく思ったものです。 十年ほど前、同級会を終えて、彼と私は近所の川へ行きました。真夜中でした。私たちは河原へおり、彼は瀬のほとりにしゃがんで、水を手ですくっていました。この辺にはめずらしい清流です。かたわらの樟(くす)の大木に風が吹きこみ、葉がゆれますと、この音だ、ぼくは聞きたかったんだ、と彼は言いました。その声が顫(ふる)えていましたから、私はハッとしたのです。暗かったのですが、彼の目は涙ぐんでいるようでした。

私にとっては、別に何ということもない環境です。しかし、ここへやって来て心を動かされる者もいる、といささか感傷的になったほどです。私の義理の叔父も中学時代に執着し続けた人です。東京では彼の中学の同窓会が毎年あって、そこで数人の同級生と会えるのを楽しみにして、彼は世話人をしていました。 彼は御油の出身で、豊橋中学へ通ったのです。早く両親を失くし、姉さんと二人で他家にいた期間が長かったと聞いたように思います。大学を卒業して日本放送協会へ勤め、いそがしく働いていました。藤枝へやってくると、緒方竹虎などと名前をあげ、政府発表のお膳立てをする苦心と緊張について話していたものです。また歴史が好きな人でしたから、少年だった私に、その向きのアドバイスをしたり、プラトンの<理想国>を評した本や、中島敦の本などを手渡したりしてくれました。NHKを定年退職してから、ある大学の教壇で倒れました。心筋梗塞でした。こうして、彼が病院で昏睡状態にあった時、都内のホテルで豊橋中学の同窓会が開催されていたのです。 今年も彼に会えるものと思って会場に来た同級生たちは、あの人、何かあったのかしら、などとうわさしていたそうです。その矢先、中の一人に電話がかかってきましたので、受話器をとると、果たして彼からでした。ぼくは病気になってしまったんです。久しぶりと思っていたのに、残念です。みなさん楽しくやってください、それから、だれそれ君にも挨拶したいから、代っていただけませんか、などと言って、彼は二人の同級生と話したというのです。 この通話の次第を、彼の葬儀で、当の二人の同級生は彼の奥さんに語りました。奥さんは応えて、そのころ主人はもう臨終に近く、眠っておりました。幻のお電話だったのですね。 信じられないことですが、それにしても、いい話だと思います。

エスペーホさんと二人の姪

エスペーホさんは、今から四十数年前、私にとって家主のおじさんだった人です。バイオリニストでした。職場はパリ・オペラ座の中にあるモガドール劇場のオーケストラ・ボックスでした。ここではいつもオペレッタが演じられていて、六十歳を過ぎたエスペーホさんは毎夜のようにこの境涯をかこっていたのです。出かける時には、仕方ない、ビフテキを稼がなければ、が口癖でした。 彼の過去は輝かしかったのです。同年輩の画家ピカソと同じスペインのマラガの出身でしたが、郷里を発(た)った時には、ピカソのように嘱望されたでしょう。十代でパリへ出て、わざを磨き、やがて友達と組んだ四重奏団は好評だったとのことです。後には、名高いラジオ・リュクサンブール・オーケストラの第一バイオリンを弾いていたというのです。 夜半の一時過ぎに地下鉄の最終で帰宅しては、夜更かしの私の部屋へ立寄り、ひそひそ声でしばらく喋ってゆくのが常でした。ウラジミール・ゴルシュマンとかミッシャ・エルマン、それからアルトゥーロ・トスカニーニの思い出話をしました。尊敬するトスカニーニの折れた指揮棒を見せてくれたこともあります。ズボンのポケットからピストルを出して見せた時には、私もギョッとしましたが、これは深夜の帰途が物騒だから、念のためとのことでした。 見事な演奏家だったと思います。自宅でレッスンをする時、お弟子の程度も高かったのですが、彼はそれを圧倒するような手本を示していました。しかし、音楽以外のことになると、子供のようで、実におもしろそうに、あまりおもしろくない駄洒落を連発したりしました。

彼はまた、しばしば祖国の話をしました。特に熱をこめたのは、闘牛のこと、ギタリストたちのこと、画家ベラスケスのこと、それから、思い出がからまるマラガの港のことなどでした。小さなエスペーホ村のことにも触れました。そこに彼の先祖が住んでいたと言うのです。 やがて私は単車にまたがってスペインへ行きました。そして、あちこちをさまよい、遂にアンダルシアの山中でエスペーホ村へたどりついたのです。白い集落の透明な水色の日影にいこい、壁に背をよせかけて、彼に手紙を書き、村人たちの顔はあなたに似ている、身振りもそっくりだ、と感じたままを記しました。 エスペーホさんには弟(兄かも)があって、この人もパリにいました。スペイン大使館に勤務していました。その端麗な二人の娘さんが、たびたびおじさんのところへ遊びに来たのです。間借りしている日本人とも話すようになり、私は部屋にいて彼女たちを心待ちにして、その声が聞えると、そわそわし始めるようになってしまいました。当時はスペインの上流の子女には、それと判る雰囲気があったように思います。 彼女たちにもエスペーホ夫妻にも、その後十年ぐらいの間隔をおいて、三回会っています。最後の時には彼は九十歳になんなんとし、奥さんは八十前後、かつての娘さんたちももう初老でした。そして最近になって、画家春田美樹さんにスペイン大使館から贈られた感謝状の写真を見ますと、領事エスペーホとサインがしてあるではありませんか。一族の一人なのでしょうか。二人の気品あるスペイン女性の父上が外交官であったことが、思い合わされてなりません。

馬で行きたい

旅の魅力は、出発に当っての期待感、移動の際の思いがけない見聞、目的地での達成感、この三つに分けて考えることができるでしょう。ところで、一般に現代の旅においては、以上の三つのうち、一と三はとにかく、二の部分が痩せてしまっています。理由は言うまでもなく、乗物のスピード・アップが進んだからです。 私の場合、飛行機の座席に詰めこまれると、ほとんど死んでしまいます。一晩中飛び続ける時など、眠れても眠れなくても、つまらなく苦しみます。唯一例外だったのは、よく晴れた午後イタリア半島からシシリー島にかけて、上空を南下した時ぐらいなものです。若いころに汗と埃にまみれて単車で走ったコースを、鳥瞰できて、感慨が湧きあがったからです。 新幹線は飛行機よりマシですが、これも風景をかすめて走るのみで、多くの人が喫茶店、軽食堂の代用として、あるいは読書のコーナーとか仮眠所として利用しているかのようです。快適だと言う人はいるでしょう。しかし、だからといって旅の印象が心に刻みこまれるわけではありません。 鈍足の旅に郷愁を抱きながらも、私もまた、飛行機や高速列車の旅ばかりしています。それで欲求不満に陥っているという程ではありませんが、やはり、しきりに思い出すのは、二十代の終りに単車にまたがって、計百二十日間スペイン、イタリア、ギリシャなどを走った経験です。あそこに旅の原点があったな、と感じるのです。ただ、来る日も来る日もハンドルにしがみついていた自分が(今もその記憶は足の傷跡も含めて、体に残っていますが・・・・)みじめに、恰好悪く思い出されるのが残念です。

当時もその後も、私があこがれたのは、馬にまたがってする旅でした。西部劇じゃあるまいし、と笑わないでいただきたいのです。たしかに、わが国で騎馬の旅をしていたら、何かの宣伝に間違えられるかもしれません。しかし、ヨーロッパの田舎では時に道を行く乗馬の人を見かけますし、ことスペインにはそれが多いようです。今も目に浮かぶのは、この国の北東部にあるアストルガの美しい城のほとりを馬で行く男たちです。もっとも、旅人ではないでしょう。土地の人々でしょう。夕焼けの中を家へ帰って行くのでしょうが、その物静かな自然なリズムに、私は魅了されたのです。二十年ほど前のことです。 ジブラルタル海峡を渡ってモロッコへ入りますと、馬上の男は更にふえます。道の主役は自動車であり、それに次ぐのは驢馬(ろば)ですが、馬もかなり使われていて、乗馬姿が素朴ではあっても、精悍で誇り高いように思えてなりませんでした。それで遂に、試乗する気になってしまったのです。アトラス山脈へ入ったところで、かなり険しい道でした。当然なこととはいえ、結果は自分自身に対する幻滅でした。 踏み台の形の岩から、馬の背にまたがった途端に、そこの高さと広さにまごつきました。とりとめない不安をおぼえました。そんな私を無視して歩き始めた馬は、やがて、かなり傾斜した岩盤をくだり始め、蹄鉄がひっきりなしに滑るのです。パニックに襲われた者の目に鮮烈だったのは、異様ともいえる遠い国の風景でした。この経験によって、旅は心に刻みこまれたとはいえるでしょうが・・・・。

祖父に洗礼

私の祖父は商人で、荒稼ぎしたり大損したりしたようです。時には商売の名に値しない商売もしたのではないでしょうか。 その一例として、中国の青島に出張して銅を買いつけたときのことがあげられるかもしれません。一九二0年代中ごろのことです。中国政府発行の銅貨を大量に集め船積みしようとして、税関に摘発され、没収されてしまったのです。後に祖父が私に語ったところによると、役人に渡す賄賂が充分ではなかったから、とのことです。この時には、腕っぷしの強い親戚の若い男をいく人か連れて行き、彼らはニッカボッカをはき、手には棍棒を持って、中国の苦力(クーリー)たちを酷使したというのです。銅貨の買い集め以外にも、何かやったのかもしれません。 このほか、久根(くね)銅山で人々が地面に坐って自分にお辞儀をする話とか、犬橇(いぬぞり)でサハリンの北緯五十度線近くまでわけ入る話とか、子供だった私は耳をそばだてて聞いたものです。 私に対してはこの上なく優しいおじいちゃんでした。無闇に甘やかすのです。私が気まぐれに何をねだっても、受けいれてくれるのです。だから私は、とうとう次のような提案までしてみる気になったのだと思います。

一九五二年、彼が八十四歳で亡くなる数日前のことです。私は、おじいちゃん、キリスト教になんなよ、と言ったのです。すると彼は弱々しい声で、お前はキリスト(教)だなあ、いいよ、わしもキリストになろう、と応えました。私はすぐに知り合いのフランス人の神父様のところへ駆けつけ、祖父が入信するそうです、しかし、すっかり衰弱してしまっていて、もう教理の勉強はできません、それでも洗礼を授けてもらえるでしょうか、と願いました。司祭は、そうですか、お宅まで行ってみましょう、と応えました。 しかし、司祭と私が祖父の枕もとへ着いた時には、彼はすでに意識がなかったのです。司祭が私のほうを向いて、おじいさんはキリスト教のお名前を知っていましたか、と訊きましたので、知っていました、と私は返事をしました。次の司祭は、神様が存在することを知っていましたか、と訊きました。知っていました、と私が応えますと、それで結構です、と司祭は言い、洗礼を授けてくれました。 葬儀の時には、司祭は信者を十人ほど連れて来てくれました。そして、みんなで聖母マリアへの祈りを唱えました。<めでたし聖寵みちみてるマリア>で始まる祈りを五十回唱えるのです。 それが続いている間に、妙な一幕がありました。前記の青島へ出張した男の一人が、最初は神妙に神父様に応待していましたが、やがて、国夫さん、ちょっと、と私を廊下に呼びだして、キリストのほうじゃあ、ひと様が死んだ時、めでたいなんて言うんですかね、と囁いたのです。不穏な空気になりそうでした。あれはあれでいいんだよ、と私は言いましたが、どうも解らんなあ、と彼は険しい顔をしているのです。だから私は司祭のところへ行き、この際<めでたし>だけは省略できないものか、と頼みました。彼はすぐに受け容れて、それ以後は<聖寵>から始めて、その祈りを続けました。

賞嫌い

小学校では、五十人前後のクラスで五人ほど優等生が選ばれ、学年末に表彰されました。その中に自分は入るものかどうか、事前に心配しました。勝手にこだわっているだけのことですが、とてもいやな感じでした。その印象が、やがて私の表彰嫌いにつながって行ったと思えるのです。 私と同年輩のある作家は、自分がある新人文学賞の候補になると、結果をあれこれ推測し、そのことで気持を占められ、発表の前夜は眠れなかった、と言いました。私はそんな彼に親しく立ち合っていて、食べるためにこの種のデビューは必要だけれど、彼の文学のためには必要ではない、などと考えたものです。彼は受賞に向ってつき進んでいたとも、受賞にすがりついていたともいえます。 ある先輩の作家が、やはり文学賞を得られるかどうか、しきりに考えているのに立ち合ったこともあります。たまたま彼の家を訪ねると、私が来たことを喜んでくれたのです。相談しがいのある理解者が現れたと思ったからでしょうか。その賞を世話する人から聞き及んだと言い、自作と他の候補作について論じ、私にも意見を求めました。そこまでは良かったのですが、やがて話は落ちるところに落ちました。だれそれは審査員と親密だから、たとえ作品は劣っていてもあなどれない、とか、今度は審査員同士で賞を分けあうことはないだろう、などと裏話になって、その賞のおぞましい前例を彼は言うのです。だから私は、そのようなものなら、電話して事前におことわりしたらどうでしょう、と提案しました。軽口のおもむきでしたが、突然彼は怒りだして、だれも君にやると言っているわけではない、と激しい語気に変りました。仕方なく私は口をつぐみ、酒を飲んでいることにしました。しばらくして、そこへまた来訪者がありましたが、今度は私を抜きにして、受賞の可能性について話し続けていました。

志賀直哉はこの種の執着を、恥ずかしいことだと言っています。芸術院会員の選考の会に自分の名前が上っていることを知って、こだわった自分の状態を眺め、情ないことだと嘆いて書いているのです。自意識の強いこの作家らしいとも、また告白を主体にする往時の私小説の文学観にのっとっているとも受けとることができます。直哉のことをシェイムレスと評した人がありますが、そんなことはないと感じさせる文章です。 直哉はまた、賞はほしがっている人にあげるようにすればいい、と言っています。公けに意志表示することは悪いことではありません。それを実行すれば、少くとも今より無邪気な状態が現れるでしょう。これは旧ソビエトを旅した時、パーティーに勲章とかその略章をつけて出席する人が多かったから、感じたことです。その人たちは、自分はこの名誉をほしがったと率直に言っているのです。 気むづかしいようですが、だからずばらしいとも言えません。私の親戚に勲一等旭日桐花大綬章を受けた人がいて、静岡県の私の家にも、記念にと言って、披露に来たことがありました。私の両親は祝福し、長年の国家への貢献をたたえていましたが、しかし、つむじ曲りの私は、その雰囲気に通俗でいじましいものを感じ、やりきれない思いでした。

書こうとしても書けない

小説はどのようにしてできるのですか、と聞かれて、次のように応えたことがあります。 とりあえず、書こうと思うことでしょうね。そして、もし糸口をみつけたら、それを離さないように、思い続けることでしょうね。思えば成ります。幸いに、メモ用紙とボールペンくらいしか要りませんから、歩道を歩いていても、ベンチにいても、電車に乗っていてもできることです。何か他の用事で中断しても、またその思いに戻るようにしてください。 <思えば成る>などと調子に乗って信念めいた言いかたをしたのですが、実際の感じとは大分違うな、とあとになって考えました。思っても成らない、とまでは考えたくないのですが、成らないんじゃないかと疑うことは、しょっちゅうです。駄目だ、書けない、と悲鳴をあげるのです。 志賀直哉も、この悲鳴を繰り返しました。ついには、書けない状態を書いてみたらどうか、と思い立って、実行もしています。開き直って、書けなくなってからが勝負なんだ、という意味のことを言った作家もあります。そこに含蓄もあるのですが・・・・。

島尾敏雄さんが五十歳のころ、小川君、ぼくは枯れました、と言ったことがありました。そして、枯淡ではありません、枯渇です、と念を押したのには、当時驚いたものです。また、たまたま同じホテルに、彼と私が閉じこめられて原稿を書いていたことがあって、彼の部屋へ遊びに行きますと、ぼくは小説の書きかたを忘れちゃったよ、と言ったこともありました。島尾さんさえも、と私は思い、かえって元気が出ました。それで私は、私の目の前からは文字が引き潮に乗って逃げて行ってしまいます、と応じました。彼は苦笑して、用意のインスタント・コーヒーをいれてくれました。飲みながら、たがいに言葉もないのです。それをすする音や、茶碗や匙の音がいやにはっきり聞えました。沈黙はたしかに憂鬱でした。しかし、そこには暖かさもかよい合っていたのです。私は勿論彼の数々の作品を知っていましたし、彼も私のいくつかの作品を読んでくれていました。だからこそ親密な共鳴があったのですが、逆に、書けないという目下の空白に感じられる同業者の連帯感のほうが、より大きいような気さえしてきたのです。 毎日のように散歩していても、爽やかな瞬間は多くはありません。書けないという思いに禍いされるからです。しかし、ここへ来て確信となっていることがあります。風景は(特に自然は)悲しんでいる人間にとって、より美しく現れることです。ヘミングゥエイは飢えている時に、パリの街も壁にかけてある絵も美しく見えた、と言っていますが、これは彼が悲しみを言おうとしているのかもしれません。あるいは、書けない状態は気持の飢えともいえるのではないでしょうか。 書こうとして書けない時には、心はもがいているのに、目はすわるのでしょうか。無意識にジッと一点を見つめているのでしょうか。三十歳のころ、大森駅から乗った電車の中で、おい、てめえガンをつけてるな、ホームへ降りろ、と兄ちゃんに言われたことがありました。たしか鶴見駅だったと思います。彼のむかっ腹を立てた表情をよくおぼえています。

カラオケ明けの寸感

アダモが歌ってわが国でも流行した<雪が降る>の詩を、私は愛しています。その一節を私流に文語訳してみますと、<雪降り、降りしきれど、わが胸は黒衣をまとい>となります。日夏耿之介の名作<雪の上の聖母像>も連想させます。両者ともに白と黒との対照をきわだたせています。勿論日夏の作は哲学的で鼻歌には決してなりませんが、恋の歌<雪が降る>も用語は適切で、韻も踏んであるのです。日夏が目ざした<黄金均衡(ゴールドゥン・アベレージ)>はだれのためだったのでしょうか。きっと彼は詩神に受け容れられようとして言葉を練ったのでしょう。ところで<雪が降る>はひたすら歌い手(あるいは朗唱者)を思いやって作られたに違いありません。 以上のような寸感をなぜ記す気になったかといいますと、実は昨夜<雪が降る>をカラオケの店で歌って、今も余韻が残っているからです。この店では、常連の私のために、フランス語のディスクを入れましたので、結果は、私をいい気にさせ、他のお客さんを辟易させることになったのです。私もカラオケ族の常として気分を出して歌ってはいますが、自分の声が箸にも棒にもかからないことくらい、わきまえています。それにしても、日本の演歌を歌えば、シャンソンよりも若干マシか、と思う未練はあるのです。

いずれにせよ、きわめてへたです。それではなぜ歌うのか、と考えてみますと、(そんなことを考える人も数少いでしょうが・・・・)歌詞に惹かれるところがあるからだ、と思い当るのです。たとえば<おんなの船頭唄>でいうなら、<思い出すさえ ざんざら真菰 鳴るな 空ろなこの胸に>というあたり、悪くないと思います。常套的と評する向きはあるかもしれません。しかし、素直で歌いやすいのです。勿論流行させようという思惑もあっての作詞でしょうが、歌う人のためを考えるセンスと親切は認められるべきだと思うのです。 他にも<人妻椿>の<路の小草の花にさえ>という句なども上品で、評価できると思うのです。<新宿ブルース>の<涙噛んでも泣きはせぬ>は激しく、光る表現だと感じます。 この際、さらに(いわゆる)大衆芸能の言葉について、思い出すままにつづってみますと、子供ごころにも、浪花節の詞章を平凡だと思ったことがあります。ある曲で、<清水港をあとにして 夜に泊りては日に歩み 行かば千里の果てのみか 牛の歩みはよし遅くとも 着いたところは秋葉山>と歌うのを聞いて、駄句の羅列じゃあないか、と思ったことがあり、それで、私はこの世界の用語を甘く見てしまったようなところがあったのです。 ところが、そんなことはない、と思い直す機会がありました。先日この欄に書いた<遠州森町良い茶の出どこ>も、ちゃんと調べてありますし、<壺坂霊験記>の中の<夏とはいへど片田舎>も、最初は、夏だって冬だって田舎は田舎じゃあないか、と笑ったりしたものですが、わが友長谷川郁男さんに教えられて、不注意だったことに気づきました。古来秋は恋の終りを象徴するのです。たとえば謡曲<野宮>にはその季節の情緒が歌われています。ですから<壺坂霊験記>では、時はめぐっても<固い仲>は変らないとも言っているのです。浄瑠璃を踏まえ、恋歌の伝統にのっとっているのです。

命なりけり滑走路

老眼鏡を頸にかけるようにしようとしましたが、めがねの蔓が細すぎました。めがねとくさりがしっかりつながりません。だから、両者を糸で縛って、つなげようと考えたのです。針箱を出してきてとりかかりました。しかし、糸がとりとめなくて、うまく指でつまめません。そこで、先ず糸を縫い針に通してから作業をしようと考えました。針の孔に向って糸のはしを近づけつつ、現在の私の視力で首尾よく通すことができるものかどうか、あやぶみました。ところが一回で成功しましたから、ささやかな自信を感じることができたのですが、その瞬間の気持がまったく別のことを連想させました。 旅客機の着陸の際の危惧と安堵を感じさせたのです。私はいく度か、空から滑走路を目にしたことがあります。自分の乗っている機が、そこを狙って舞いおりつつある時に、そこは実に小さく、縦長の針の孔にたとえても誇張とは言えないほどに見えます。 かつて文芸評論家の進藤純孝さんと作家の田久保英夫さんに同行してロシアへ行ったことがあります。われわれの乗ったアエロフロートの機がモスクワの空港めがけて降下しつつあった時には、雪で視界ゼロの状態でした。例によってエンジンの音はほとんど消え、静けさの中で何回か、かなり急な旋回を続けていますと、進藤さんがそのたびに、おっとっとっと、とつぶやいているのが聞えてきました。自身がたたらを踏んでいるかのようでした。

島尾敏雄さんと国内便に乗ったことがありましたが、これは離陸の時に、あらかじめ機内に音楽を流すのを、ごまかそうとしているな、と彼は言い、いたずらっぽく笑っていました。勿論危険をおおいかくす音楽、と言っては言いすぎです。そこはかとなく乗客の胸に湧くかもしれない不安をなだめるのが、目的なのでしょう。 思い浮かべるのは、西行法師が<命なりけり小夜の中山>と歌っていることです。これは彼の感慨でもあり覚悟でもあると解釈するのが普通ですが、物騒な峠を越えながら、くわばらくわばら、と言っていると解する向きもあります。西行のひそみにならって<命なりけり滑走路>と、冗談を言えそうな気もします。 ところで、アリタリア航空の機内の空気は、他の会社のそれよりも陽気なように思えます。当然イタリア人が多く、彼らは明るいおしゃべりが好きですか・・・・。それだけに、着陸に集中する乗客の気持が、はっきりと表に出るようです。私が知っている例は、操縦士が巧みに機を着陸させると、乗客が一斉に拍手したことです。車輪からの衝撃が少ければ、拍手は大きいのです。強くガタンとなった時には(私は聞いたことはありませんが)、ブーイングが起るのではないでしょうか。かつてカイロの空港で、割れんばかりの拍手を聞いたことがあります。接地のショックがあるかなしだったと思えたからです。ゴトといっただけでした。しかし、これは着陸の前に車輪を出した音だったのです。続いて本当の着陸の音がしましたが、これも柔らかでしたから、ふたたび盛んな拍手が起りました。あたかも、操縦士がご好評にこたえて、再演したかのようでした。

丹下左膳餘話・百万両の壷

劇場映画のビデオを、借りてきて見ることもありますし、五十本くらいは持っていますから、時に見直すこともあります。手持ちのものはほとんど昔の作品で、なつかしんで見るのですが、がっかりさせられるものもあります。たとえば<モロッコ>や<望郷>や<カサブランカ>はその部類に入ります。大向こうを意識したり、時局に便乗したりで、今や色あせてしまったとしか思えません。 今もなお輝きを失わない作品に<北ホテル>や<港のマリー>があります。これらはリアリズムに入念に心がくばってあり、さすがだ、と思わせるのです。そして、リアリズムではないにしても、心くばりが行きとどいた、センスあふれる作品に、わが中山貞雄監督の<丹下左膳餘話・百萬両の壺>があります。軽妙なタッチですし、現代人にも通じる悲しみがにじんでいますし、お芝居のおもしろさも充分にそなえている名作です。 当然私はこの監督も映画も愛していますが、その気持のなかには、実は個人的な感情がまじっているのです。自分は<百萬両の壺>と縁があったと思っているのです。 この作品が田舎町藤枝で上映された時、私は(たしか)小学校三年生で、半月も前からその日を待ちわびていました。名作にあこがれたからではありません。丹下左膳にあこがれていたからです。しかし、他の<左膳もの>と違って、ある日曜日の昼席で一回しか上映しないということでした。その理由を今になって推測しますと、少なくとも田舎では、あまり受けなかったのではないか、プリントも少なかったのではないか、と思えるのです。それはともかく、小学三年生の私の意識は、来るべき日曜日の昼席に集中していました。 ところが私の家では、当日は家族で列車に乗り弁天島へ行くことを計画しました。私以外の家族四人は、映画などではなく、遠足を待ちかねていたのです。母は特にこの機会をうれしく思っていたのでしょう。私はぐずぐず言っていたのですが、当日ついに、弁天島へは決していかないと言いきりました。母は激怒して、引っぱってでも連れて行こうとしました。そんな勢いを感じて、私は姿をかくしてしまおうと家をとび出しました。母は追いかけてきて、家にそった蔭った路地で息子をつかまえました。

息子は、どうしても町をはなれるのはいやだと言い張って、泣いて暴れました。彼女の手から逃れさえすれば、それでよかったのです。映画の料金十銭は、ポケットの中にためてあったからです。とにかく彼女はしつこかったのです。(彼女からすれば、私がしつこかったことになりますが・・・・)。私はこの時にも、女性の偏執のすさまじさを、それとなく感じたように、今も思っています。 争いながら彼女の言ったことをおぼえています。あんたはバカだね。あんな影んぼちのどこがいいんだい。活動なんかばっかり見ていると、あんた、不良になってしまうよ。 にもかかわらず私は強情を張り通して、あこがれを実現しました。そして、映画全体の意味はよく解らなかったにしろ、いくつかの場面を網膜にやきつけたのです。望遠鏡で覗いた射的場のシーン、左膳の他流試合のシーンなどを・・・・。

<追っかけ>にもセンス

Mさんは文学の読み手です。彼女と話していると、文学の世界が広く感じられてきます。たとえある作品について意見が割れて論争めいたことになっても、後味は悪くありません。 Mさんは今三十歳を過ぎていますが、女学生だったころ、ある女流作家に傾倒しはじめました。彼女の作品の良さを自分が発見したと感じたそうです。それで、神田の本屋でもようされたその作家のサイン会に出かけて行きました。愛読者が長い列を作っていましたので、店員さんが、このあとで作家は名古屋でサイン会がありますから、一人二冊だけにしてください、と制限しました。しかしMさんは五冊抱えていたのです。二冊サインしてもらっただけでは満足できなくて、次のサイン会場を聞き出し、新幹線で追いかけ、夜になってついに五冊に署名を得たとのことです。この話をして、彼女は笑いながら、結構追っかけだったのよね、と言いました。私がいくらかやっかんで、走っている時どんな気持でしたか、と聞きますと、Mさんは照れたふうで、そうね、楽しかったわ、と応えました。 これも<追っかけ>になるのかどうか、ひそかに熱をあげて、ひとり追うのです。充実していたと思います。 これとは違いますが、他にもいい感じの<追っかけ>があります。なぜ私がそう思うかといいますと、追っかけられたのが同級生の池上正だったからです。旧制中学時代、彼は子がらな、おとなしい生徒でした。私は生半可な知識をひけらかしたり、早熟ぶったりする仲間に属していて、あとになって考えると恥かしいのですが、彼にはそんなところはありませんでした。ほとんど黙っているのです。かといって暗くはありませんでした。こんな印象にかえって惹かれて、私は彼の家に何回か遊びに行ったことがあります。小川(こがわ)港といって、遠く海上に富士山の見える漁村でした。

彼も家では自分を見せましたから、私はその感じやすい性質をだんだんに知ったのです。闊達なスポーツマンの兄さんの蔭に入ったのだろうか、と思ったこともあります。 池上に本懐だったことは、明治大学に入り、明大マンドリン・クラブのキャプテンになったことでしょう。そんな技量をどこで手に入れたのでしょうか・・・・。当時このクラブの指導者だった古賀政男さんに目をかけられ、きっと池上のために、古賀さんの肝煎りで、彼の郷里の藤枝で<演奏と歌の夕べ>を開催することになったのです。指揮者は古賀さんと<勘太郎月夜唄>の作曲者、清水保雄さん、歌手はブルースの女王、淡谷のり子さん、<高原列車は行く>を歌った岡本敦朗さん、他にも(名前を失念しましたが)当時脚光を浴びている女性の歌い手がいました。そして終始古賀さんと清水さんのすぐ前でマンドリンを奏き続けたのは池上正でした。同級生たちも驚き、彼は変身したと言いました。しかし私は、少くとも彼のリリカルな素質だけは知っていたのです。 彼に<追っかけ>がついたのです。三人であったか、町の娘たちが駿河台の明治大学まで行って、しばらくそこを離れなかったそうです。池上だからゆるせる、とでも言うべきでしょうか。いわば、私の中にもその娘たちに共鳴する部分があったのです。センスがある、と思いました。

命と幻想

少年や少女の自殺が報道されますと、私も心痛め、真実を知りたいと思います。その続報に注意を集め、事実関係はかなり知ったように思うこともありますが、よく考えてみますと、ほとんど何も解っていないことに気づくのです。当の少年少女の心に渦巻いていた悩みや悲しみに立ち会うことができないからです。ひとが見る悪夢を如実に想像することはむつかしいし、これらの場合そのデータもないのです。しかし彼らは、事実とからみ合った幻想につきまとわれ、圧迫され、うちのめされていたに違いありません。幻想ではあっても軽視はできません。死を願うこと自体幻想なのですから・・・・。私はこれらの場合の現実の責任を曖昧にしていいなどとは決して考えていませんが、三十五歳の理性の人芥川龍之介さえ、自殺へみちびく幻想から逃れることができなかったことも思い合わせるのです。 ジャック・ニコルソンが脚本を書いた映画<白昼の幻想>はまっこうからこの問題にとり組んでいます。うぶなLSD服用者がとらえられ翻弄される幻想を描いているのですから、自殺した少年少女のケースとただちに同一視はできないにしても、たがいに通じあうものがあります。たとえば強そうでしつっこい追跡者につきまとわれ、どうしても振りきることができない場面がくり返されます。現実の町へ出て行くと、シカトされたり、正体の知れない連中になれなれしくされたりする場面もあります。つまり主演のピーター・フォンダは、現実の隣にある地獄のようなところへ入ってしまうのです。なぜそんなことになったのでしょうか・・・・。初心者が誘惑に負けたからだ、というのは充分な応えにならないでしょう。もともと<そこ>は安息を含んだ逃れの町だったはずです。ヤクは<そこ>へ行くためのパスポートだったはずです。

この映画のすぐれている点は、ファンタスティックなお芝居ではなくて、ある青年がおちいった状態をなまなましく描いていることです。逆説的ですが、ほとんど全篇が幻想場面でありながらこれほどリアルなタッチの映画もまれなのです。だからこそ、まじめに思いつめる人にとって、人生の鍵は何であるかを思い当らせることができるのです。 ここで一人の自殺者ヴァン・ゴッホを引き合いに出しますと、彼の名作<星月夜>は幻想的だとされていますし、有名な<鴉の飛ぶ麦畑>も同様に見なす人があるでしょう。しかし、この二作だけではなくて、彼の全作品が意外に幻想的だ、と私は思うのです。随所に見られる彼のタッチのうねりやぐるぐる回りが、映画<白昼の幻想>の中にもいたるところに現れます。炎の人ともよばれるゴッホは、後世のLSD服用者と一脈通じる視界を持っていたようにも思えます。そして映画の主人公の心とこの画家の心が共有しているのは悲しみであり、異邦人の意識なのです。 今、自殺を人生からの堕落と定義するなら(ほかの定義もあると思いますが・・・・)、<人の世に堕落の原因があるのは避けられないことだ>という聖書の句が気になります。 そして映画<白昼の幻想>は、堕落を感じている一人からの痛切な発信のようにも思えてくるのです。

後輩に打ち明ける

おととい、私は大阪芸術大学で卒業論文に目を通しました。文芸学科ですので、卒論といっても詩、小説、文芸評論です。五人の学生と向き合って、作品を読んだりアドバイス与えたりしました。出来栄えには上下はあるにしても、いずれも意欲作です。だから、以下のような感慨を述べて、この日のしめくくりとしたのです。 徹夜徹夜で書いたとのことですが、そのことによって、私は諸君に親近感を抱きます。思いあぐねて夜明けを迎えたこともあるでしょう。その時間は私もいやというほど知っています。たとえば、闇に鳴く一番鶏です。その声が自分のさだめのように思えます。子供のころには、たまに一番鶏を聞いても、希望を告げているかのようでした。島崎藤村もそのように歌っています。知っていますか。<今日の命の戦いのよそおいせよと叫ぶなり>と言うのです。また大井川の河口の村に住んでいた老人が<昔のように鶏の声で起きたいよ>と言っていたのも思い出します。ところが徹夜族になってからは、同じ鳴き声が悲しみになってしまいました。聖書にはペテロがその声を聞いておいおい泣くところがありますが、それも解る気がします。(彼のように重大な歴史的状況にいるわけでもないのに・・・・)。 田舎町藤枝にいて、私はほどんど毎夜、一番鶏を聞いていました。そして、やがて東京の駿河台のホテルに入って原稿を書いていますと、ここでも鶏は鳴くのです。近くに漱石も通った錦華小学校があって、理科の参考のためなのか、鶏が飼ってあるらしいのです。追いかけてきたな、と思いました。

駿河台のホテルで、鶏以外に胸にしみたのは、未明のトランペットです。ホテル自体か、近くの建物の屋上で練習しているのでしょうか。張り切って吹いているのかもしれませんが、長く尾を引くその音は、私にはやはりもの悲しかったのです。 それから、ゴミ収集の作業員が音をたてます。カランカランという罐の音です。彼らは黙って着々と作業を進めていて、その日が動き始める感じですから、明るいとさえ言えるのですが、私には痛切な思いがともなったのです。 ペンを持ったまま、窓から彼らをぼんやり眺めていたこともあります。彼らはどういう人なのう・・・・。彼らの中に私の親友がいたのです。その友は、私ほどではないにしても、昼よりも夜になじみ、私以上に酒をたしなんでいました。結果はアルコールに中毒して、瀕死とさえいえるほどの症状におちいりました。しかし、ひとたびそこからの脱出を決意すると、東京都の施設に入り、ひたむきな努力を続けました。そして、医者が彼に勧めた作業が、夜明けのゴミ集めだったのです。奥さんとも、大学生の娘さん高校生の息子さんともほとんど行き来しないで、彼は働いている・・・・、そのことが、私には気にかかったのです。 私だって、外界の音など大して気にならないほど乗っている文士でありたいのです。諸君は今は乗っているでしょう。しかし、長い間この仕事を続けるとすれば、私のようなことになるかもしれません。

でんさいネット

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